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「インクルーシブ社会に向けた支援の<学=実>連環型研究」プロジェクト司法における多言語/多文化主義を考える

筆者: 稲葉光行(政策科学部・教授) 執筆: 2014年1月

はじめに

 「日本は一民族、一言語の国である」という言い方がされることがある。実際のところ日本には多くの外国人が住んでおり、日本を訪れる外国人の数も年々増加している。法務省によれば、日本の外国人登録者数は200万人を超えている。平成22年の外国人入国者数は過去最高の約944万人であった。つまり日本には、日常的にさまざまな言語を母語とする多様な民族が居住あるいは滞在している。
 実際は、外国人だけが多様なことばを使っているわけではない。日本全国では実にさまざまな方言が使われている。1991年に国立国語研究所が作成した「方言文法全国地図」では、「朝早く起きる」の「起きる」について52種類の異なる言い方が挙げられている。また「飽きる」については98種類の言い方がある。これだけ多様な方言があれば、日本各地の人々の間でコミュニケーション上の齟齬や誤解が生じる可能性は十分にある。
 地方を旅行している時に方言がわからなくても、相互不信や深刻な対立に発展することはまずないであろう。ところが取り調べや裁判の場で方言に関わる齟齬や誤解が起きれば、公正・公平な司法判断が難しくなり、人々の人生が不当な形で大きく変えられてしまう危険性もありうるのである。

1.方言、標準語、そして法律用語

 筆者らは現在、西日本の山間部に住む方言話者らが起訴された、ある刑事裁判の再検討に取り組んでいる。裁判では供述調書が唯一の証拠とされたが、結果的に被告人全員が無罪判決を受けた。この事件は、長期の勾留や取調べ手法に対する疑問から、マスコミ等ではしばしば「冤罪」事件として取り上げられる。筆者らは、なぜこのようなことが起きたのかを明らかにするため、供述調書や公判記録を分析し、さらに取り調べを受けた5名の方々に直接お会いして話を伺った。
 筆者らはこの5名に、当時法律用語をどれだけ理解できていたのかを尋ねた。彼らは取り調べや裁判で使われた法律用語をほとんど理解できておらず、標準語での会話にも困難を感じていた。ある女性は警察署で「自分の土地の方言で話してくれなければ何もわからない」と取調官に伝えたが、その訴えは無視されたとのことであった。
 実際筆者らも、法律用語だけでなく、標準語でのやりとりが時折うまくいかないことに気づいた。ある男性は「茶箪笥」がわからないと答えた。別の男性は「任意」の意味を知らなかった。興味深いことにこの男性は「任意同行はわかる」と補足をしたため、意味を尋ねたところ、「警察が『ちょっと話を聞きたいんですけど』っていう、あれでしょう?」という答えが返ってきた。それは意味の説明ではなく、具体的な体験の記述というべきものだった。

2.ことばと文化

 筆者らは、ことばだけでなく思考スタイルの違いを感じたため、5名の同意を得ていくつか心理テストや認知テストを実施した。その結果、例えば「太陽がどの方角から昇るのか」という問いに対して明確に「東」と答えられた方は1名だけであった。ある女性は、太陽が昇る方角を「いろいろだからね」と答えた。
さらに筆者らは、彼らが住む山間部の集落を訪問した。そこで筆者らは、方角に関する彼らの回答は生活環境に起因するという仮説を立てた。その集落では、木々の間の家や畑の位置関係は生活上重要であるが、方角という抽象概念は重要ではないように思われた。また山々を基準とすると太陽が昇る位置は季節毎に微妙に異なるため、太陽が昇る方角が「いろいろ」であるのも、具体的な体験を正確に描写した答えであると言える。
 このような抽象的思考と具体的思考のギャップは、A. R. ルリヤらが中央アジアの農村部でウズベク語を話す被験者に対して行った実験結果 (ルリヤ, 1976) と共通点があるように思われる。この実験では、現地の住民らに「三段論法」を用いた課題(「雪の降る極北では熊はすべて白い。ノーバヤ・ゼムリヤーは極北にある。そこの熊は何色をしているか?」などの質問)を与えたところ、彼らは具体的に体験してないことは一切答えようとしなかった。
 筆者らと元被告人らとの一見不自然なやりとりも、「方言と結びついた文化」と「標準語と結びついた文化」が遭遇した結果であり、さらに彼らが取り調べや裁判に関わっていた当時、それらの2つのことば/文化の差に加えて、「法律用語が使われる司法の文化」との間にも大きな齟齬が生じていた可能性が高いと考えられる。

3.司法における多言語/多文化主義〜ハワイ州の事例

ハワイ州女性コミュニティ矯正センターで撮影(右端がPatterson所長) これまでの議論から、日本という1つの国の中には多様なことば/文化があるため、それらの間のコンフリクトの解消にむけた取り組みがなければ、公正・公平な司法判断が行われない危険性があることが見えてくる。
 それでは、ことば/文化の違いを包摂する司法とはどのようなものであろうか。筆者らは、多文化社会と言われる米国ハワイ州にある、女性コミュニティ矯正センターを訪問する機会があった。パターソン所長によれば、ハワイ州で犯罪に手を染める人々は多様な言語と文化的背景を持つが、司法に携わる人々の人種や文化的背景も多様であるため、同じ言語を話し同じ文化的背景を持つ人間が、裁判、矯正、あるいはセラピーの過程に関わるとのことであった。もちろん人種や歴史に関わる根深い問題をすぐに解決できるわけではないが、少なくとも、ことばや文化の違いによるコミュニケーションの問題が起きない枠組みがあるという点では、日本の司法システムも参考にすべき部分が多くあるという印象を持った。

4.インクルーシブな司法と多言語/多文化主義

 2009年に裁判員制度が始まり、市民が司法手続きに参加することとなった。それは、同じ日本という国の中で、さまざまな言語的・文化的背景を持った人々が司法に参加する可能性が出てきたということである。
 それはある意味で、日本の司法手続きにおいて、コミュニケーション上の問題が起きる可能性が増加していると言うこともできるかもしれない。しかし同時に、裁く側の言語と文化的な多様性も増加しており、その多様性を活かすことで、ハワイ州での取り組みのように、「ことばや文化の違いによるコミュニケーションの齟齬という問題は起きない」と言えるような司法制度の基盤ができはじめていると考えることもできる。
 我が国においても、さまざまな裁判員が持つ言語的・文化的多様性を活かした「司法における多言語/多文化主義」の可能性について検討し、方言・文化的背景・思考スタイルなどの違いによって冤罪が起きることのない「インクルーシブな司法」のあり方について真剣に議論すべき段階に来たと言えるのではないだろうか。

参考文献

  • ルリヤ, A. R. (1976)(森岡修一訳) 『認識の史的発達』明治図書

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