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床屋のはなし

筆者: 望月昭 執筆: 2004年

 「床屋ネタ」の続きです。私の 場合、この20年くらいほとんど自分で切ってます。床屋での1時間が至福であるという人は別ですけど、自分でやれば15分で終わるし、お金もかかりませ ん。「髪を切る」ということについては、どうも専門家にお金を払って依頼するものであるという常識が(必要以上に)できているように思えます。
 私の場合も、少年時代、散髪行動とは、「自分で気にいった髪の状態を実現しに行く」といった、積極的、前向きの姿勢は全くなく、結果に満足したこともあり ませんでした。親の「さっぱりしたね」の社会的強化も、親子のギャップを感じさせる数ある日常的出来事のひとつという感じでした。
 それでも、中学くらいになると、「食パンみたいにしないで」とか「あんまり短くしないで」といった程度の注文を言うようになりましたが、その思いが通じた ことはなく、状況に変化はありませんでした。思いが通じないので、注文言語行動が強化されることもなく、その後、多少語彙は増えたものの、これ以上の悪い 事態を避けるための念仏のようなものでした。
 こうまで「気に入らない」あるいは「言うことが通じない」というのは、何か基本的に問題があると思わざるをえません。第一に、私が自分で似合っていると信 じている髪型と世間の常識との間に大きな差があり、床屋さんは善意で、私の髪型を少しでもましなものにしてくれているのにそれを受容できないという可能性 です。それにしても、半世紀近く、社会的常識に適応できないってことがあるだろうか(もちろん、髪を多少いじっても総体としてどうにもならない、というよ うな根本問題には蓋をした上で)。第二には、たしかにコミュニケーションの問題が挙げられるかも知れません。私と床屋さんの間に、髪の毛のスタイルや作業 に関する共通言語がないということです。では、価値観もコミュニケーションも共有しているはずの他人(恋人その他)にやってもらえば良いかというと、愛情 ではカバーできないものが世の中にはあることを改めて思い知らされるというのが、個人的結論です。
 これらのことは、あくまでも自分の髪を他者に委ねるという前提に立った場合の問題です。自分で自分の髪を切ることができればいずれもクリアできるはずです。
 というわけで(?)、私は自分で切っているわけです。失敗がないわけではありませんが、髪はまた生えます。1ヶ月に一回切るとして、一年に12回も練習の機会があるわけですから、長い人生の中で上手にならないはずはない。盆栽にも通じる話だと思います(?)。
 もちろん、自分で切るという事を前提とした場合でも、有効な他者の援助や助言というものはあるものです。私の場合は、「切るのではなく鋤け(すけ)」とい う姉の助言でした。「鍬ばさみ」という援助機器も重要なポイントです。少しづつ鋤いて確認しながらやれば、社会的妥当性はともかく、いちおう思った方向に 行きます。レザーカットは初心者には大惨事を招くことがあるので要注意。
 しかし、かくいう私も、最近、生まれて初めて(床屋ではなく)美容室なる所へ行ってみました。時に、新たな選択肢を試すというのもQOL向上のポイントで す。車で衣笠近辺を探索して、他のお客のいない店を見つけて思い切って入りました。しかし結果はやはり散々でした。「食パンみたいにしないで」って言った んですけど。


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