えっせい

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ーー自由に、全てを繋ぎたいと…

筆者: 滝野功 執筆: 2004年

 この欄に一文を依頼されてから、時間が結構経ってしまった。 理由はいくつもあるが、その一つは、前の4編を読むと、書きたい ことがあまりにも次々に浮かんで来過ぎたということがある。
 元のところに戻ること以外はっきりした目標なしのドライブの ように、精神を自由に遊ばせることは、自分にとって至福の時である (ホントは道のないところをジープで踏破したい)。帰宅しては 必ず地図をじっくり観て、たどった道のりとその間に出あった風景・ 光景を思い出すのがさらに楽しいように、連想の後を辿るのも面白い。 この遊びは、まじめな夢分析の基本作業に通じていく。
 しかし、あまりにもいろんなことが出て来たり、出あったりすると、 一つのまとまった筋をつけるのは難しくなる。コトを一つにすぐに絞り たくないという傾向が自分にはあって、これは自分の知的傾向をも特色 づけることは承知している。
 自由に漂うことができる能力と、そこから意味を抽出し、全体をまとめる 知性。この双方が精神分析では必要とされるが、これを客観的に計る方法は ないものか、などと考えた。あったとしても知能指数のようには標準化はでき ないだろうが…
 もう一つ別の傾向として、元に戻って考えるという傾向が自分にはある。 これに名前の謂れなどへの関心が加わると、考え出したら、さらにいろんな ことが押し寄せてくる。
 今回も、「リレーエッセイ」そのものについて考えてしまった。「リレー」 と言うからには、1)ある程度規則的に、書くことが継続されるか、あるいは 2)書く内容の一部が継続されるか、その双方か。しかし、そのいずれをも満た していないのでは、これは? そもそも、どういう読者を想定しているのであろうか? などなど考え始めてしまった。
 そんなことを尋ねるのは野暮というものかもしれない。しかし、「なんでも いいのです!」と言われると、寝椅子の横たわっての自由連想と同じく、意外に 難しくなってしまう。と言うのも、一切自由ということの中で語らせることに よって、実はさまざまなアセスメントがなされるし、出来るからである。
 フロムの『自由からの逃走』は今日の日本人にこそ読まれる必要がある、 などと思っていたら、なんと本学に思想家としてのエーリッヒ・フロムを深く読み 込み研究していた人がいるのを発見した(産業社会学部の出口剛司氏)。 自分が大学に入ってたまたま最初に出逢った本はこのフロムの “The Art of Loving”であった、などなど….. 想いは馳せて止まらない。


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