FROM JAPANESE RESEARCHER

緒方 三郎 氏
((財)未来工学研究所 知識社会研究グループ長)
 対人援助学で「しなやかな社会」の実現を


共生と排除
 ハンディキャップがあったり、失職したりして社会とのつながりをつけづらくなっているひとがいる。社会から少しずつ押し出され、そして、その状況から抜け出せずに、そのまま継続していくことがある。
 共生社会ということばは世の中に氾濫していて、もはやありふれたものとなっている。共生の必要性が声高に叫ばれるたびに、共生社会というものは実現できていないのだなと感じる。そして、その一方で共生ということばを耳にするたびに一種の居心地の悪さを感じてきた。それはそのことばが想像させる価値観の否定しがたさやその曖昧さに対する反撥なのであろう。
 わたしたちが暮らす社会のなかでは区別や排除の扱いを受ける機会が山のようにある。そのこと自体はすべてが悪いわけではなく、正当性があることも多い。
 しかし、区別が不当な排除に変わるとどうだろうか。世の中には不当な排除が隠蔽されていることがある。制度や構築物がそれらをつくった者が意図していなかった排除を行っていて、気づかれないまま放置されていることがある。悪意がなくても排除は起こる。その多くはマイノリティに対するもので、個別性に対処できていないことが要因となっている。

「対人援助学」の視点
 わたしたちの社会に知らないうちにひとびとを排除しがちな性質や構造があるのだとしたら、そうならないような方策が必要だ。さらには、排除された当事者がその状況から抜け出しやすい道筋を用意しておく必要がある。
 こうした問題を解決するためには、どのようなアプローチをすればよいのだろうか。その答えを探そうとするひとつの試みが立命館大学のHSRCが推進している対人援助学である。
 対人援助学は当事者の負担なく社会のなかに共生あるいは包摂できることを目標に据えている。援助とは「本人の意思を尊重した自立を個別に支援すること」と主張する。そこに見られるのは「個別性に対峙する」という姿勢である。
 こうした活動を社会的な改善につなげようと意図すれば、何らかの制度化や仕組みづくりを進めることになるだろう。その過程では被援助者を類型化してひと括りにする作業を伴いがちであり、そもそもその作業がかれらの個別性を剥奪する可能性を内包している。制度のもとで個別性へ対峙するという所作は、当り前のように見えて難しいのである。
 立命館大学のHSRCの挑戦は、そうした困難に敢えて立ち向かい、対人援助という営みから「対人援助の科学」を構築していこうとするものである。こうしたテーマで学術研究を進める場合には、研究者、援助者、非援助者等が協働し、現場における実践と研究の往復運動を繰り返すことが欠かせない。そうした研究推進方法の面においても野心的でユニークな挑戦であると言える。

「しなやかな社会」の構築に向けて
 わたしたちが対人援助を考えることは、社会がひとを扱うさまに目を向けることにほかならない。それは、わたしたちひとりひとりの当事者性や、社会の強さや弱さ、さらには社会の持続可能性を考えることにつながっている。
 たとえば、一人前ということばがある。社会のなかである役割をひとの手を借りずに果たせるようになった者を指して使う。わたしたちは多くの場合、家庭や社会から一人前になることを要求されて成長していく。しかし、一人前という概念の強調は同時に一人前でない者をひと括りにして扱う可能性を孕んでいる。そして、一人前ということが肯定的に語られるたびに、一人前でないことは否定的な意味合いを持つことになる。だから、わたしたちの社会は一人前になった途端に身につけた役割から降りづらくなる社会でもある。社会や組織のなかでは降りた者を異質な存在として取り扱いがちであり、不寛容な態度をとる。そうした態度を示す理由には、異質なものへの不安や、地位など社会的な関係性の変化に対する不安、管理コストなど経済効率上の制約があるのだろう。
 しかし、ひとびとを画一的に扱い、さまざまな在り様や可能性を認めないような社会は将来脆弱になっていく可能性がある。じつは、ひとの個別性に合わせて柔らかい振舞いをする社会のほうが懐の深い、強い社会なのではないだろうか。柔らかくて強い、そういうしなやかさを持つ社会をわたしたちは構想すべきなのである。
 わたしは対人援助学の成果と実践が、ひとびとに対して不寛容な振舞いをしがちな硬い社会を見直し、しなやかな社会にデザインし直す原動力になるのではないかと考えている。