神谷 『トニー滝谷』という映画、2回以上見たことがある方?初めてご覧になられた方?圧倒的に初めての方が多いですね。市川準監督の作品が好きだから見た方?村上春樹さんの原作だから見ようと思った方?イッセー尾形さんが好きなので見ようと思った方?宮沢りえさんが好きなので見ようと思った方?圧倒的に村上春樹さんの原作だからが多いようです。 原作を読まれている方は?あまりないですね。というような皆様なんですけど。まず団先生は、『トニー滝谷』をどのようにご覧になられたかというところから、お伺いしていいですか?

  何から話すかな。まず先程も、ちょっと確認したんですけど、村上春樹さんの小説そのものについて、あまりごちゃごちゃいいたくないんですね。それをいい始めるとインターナショナルに人気のある人ですし、今、話題の作品もあるので、皆さん意見もあるでしょうしね。市川準さんの映画『トニー滝谷』について思うこと、原作を読んで思うこと、という話になればと思って話します。今日の映画は短い映画でしたし、原作をご存じの方も多いと思いますので、どんな意見をお持ちになったか。我々が話すことを受けて、どんな感想をお持ちになったかを後で、マイクを回すのではなく、近くに座っている方と話していただくという流れも考えています。皆さんご自身のスタイルで声に出してみることをやってほしいと思います。それでは私が、どう観たかを話そうと思います。
 私は、これを神谷さんがやっている京都シネマで公開した時に観ましたが、なんでこの作品を選んで見たのか、あまり覚えてないんです。「宮沢りえさんの映画ですよ、宮沢りえファンが見ているんですよ」と神谷さんに言われたのですが、宮沢りえさんの映画が観たくて出かけたのかどうか、あまり覚えてないんです。 見終わって、「あ、終わりか」と思いました。それだけでした。『トニー滝谷」のことを後で語りたいと思ったことは全くなく、映画を見たから原作を読んでみようとも思いませんでした。そういう意味では私にとって、済んだ映画だったんです。
 登壇の要請と今シリーズの上映スケジュールを見せられた段階で、私はこの日しか空いてなくて、「僕が行けるのはここだけですわ」、「じゃあ、そこは『トニー滝谷』で」という巡り合わせでこういうことになりました。
 そこではじめて、そういえば『トニー滝谷』は見たけど、どんな映画だったかな。イッセー尾形と宮沢りえが出ていて、市川準監督の作品だったなぁと思い出したようなことです。市川準作品は、DVDBOXを持っていたりしますから、ファンではあるんですね。
  市川準さんといいますともう十年以上前のことですが、参加者がせいぜい二、三十人ほどの集まりで、市川さんがお話しされたのを聞いたことがあります。関西に来て映画『大阪物語』を撮っている忙しい最中に、先に約束していたから仕方なく来られた講演の感じでした。
 『編集者講座』という、編集を生業にしている人たちを対象にした講座が京都で継続開催されていて、そこへ市川さんが来たわけですね。
 「講演は疲れるから、これまでつくってきたコマーシャル、30秒、1分のものをまとめて録画したのをたくさん見てもらいながら、何か解説します」という、ある意味、安易な約束の果たし方だと言えなくもありませんでした。
 ご本人は疲れてはって、かなり不機嫌やったんですけど、不機嫌な人って、ちょっと面白いんですね。不機嫌な人をつっつくと、普段言わんような本音も言いますから。それが楽しかったんです。なかなか気難しそうなおじさんといっても、私よりも1、2歳下と違いますか。1949年生まれかな?

神谷 そうですね。49年生まれですね。

 私、47年生まれですから、一昨年市川さんが亡くなった時にはびっくりしました。
 同年代で、ものづくりをしている一流の人ですからね。こんな風にものを創ったり、話をする人なんやなぁと思いました。
 印象的だったのは、当時、話題になっていたCMの話です。日清食品がタラコを多め目に入れたタラコスパゲッティのコマーシャルを、旬の女優、SHさんを使って放送していました。そのCMを市川さんがつくったんです。
 ところがこれがあまりきれいなコマーシャルじゃないんですね。SHがタラコスパゲッティをおいしく食べて、口の周りにいっぱいタラコがついているという、 タラコ唇という言い方をそのまま絵にしたような、ダジャレです。口の周りにタラコ一杯の女優がアップで写っている。どう見てもきれいに撮ってあげた感じが ないフィルムで、ただインパクトがあったんです。
 日清食品は、それでよかったかもしれないけど。それに対するフロアからの質問で、「今、話題になっているコマーシャルですが、よくSHさんがやりましたね」と聞かれて、「女優だからね」と。
  「なんであんなコマーシャルを撮ったんですか?」。すると市川準さんが「私、SHが嫌いなんだ」と、身も蓋もない返事をしていました。
 SHさんというのは、その頃、時代の追い風にのっている話題の人だったので、そんな裏事情があったのかぁと思いました。
 私の印象では、コマーシャルを撮っている時の市川準さんと、つくりたい映画を撮っている時の市川準さんの二人が居て、どれだけの人たちを対象に創作を形に するのかという点で、明確なスタイルのある人やなぁと思いました。そして同時に、クリエーターの癖というか主張も、実際にお目にかかって聴いていると、よく分かりました。
 その講座は営業の場ではないですし、利害関係者が居るわけでもなく、市川さんは油断して自分の作品についてしゃべったり、解説したりしていましたから、興味深い話がいっぱいでした。聴いている人達の多くは業界の人でしたが、私は門外漢でした。
 そんなこともあった市川準さんですから、公開された映画は出来るだけ見るようにしていて、好きなものはDVDも持っているというわけです。
 その中で、『トニー滝谷』は、格別に好きな作品というわけではありませんでした。今回のことがあって、前に一度映画は見ているので先ず、原作を読みました。
 原作の『レキシントンの幽霊』は薄い短編集として出ています。これを読んだのですが、映画を見ているので、登場人物は自動的に顔がイッセー尾形なんですね。編集者で突然、彼の奥さんになる人は、宮沢りえさん。そこは抜けません。
  ほとんど映画のことは忘れていたので、この短編を読んだ時、「ああ、こんなアッという間の、サラッとした話やったかな・・・」と思いました。
 そしてDVDで『トニー滝谷』を見ました。そしたらね、違うんですよ話が原作とは。というより、逆にこの映画はとても原作に忠実に作られているんです。神谷さんは映画をたくさん扱っているからわかると思うけど、一般論として原作と映画は違いますよね、基本的に。

神谷 基本的に別物です。

 原作に惚れ込んで映画を見たらがっかりしたというのは、ことさら珍しい話じゃなくて、分厚い原作本など、そのまま2時間の映画にしたら、粗筋になってしまうのはわかっているわけです。ところがね、これは小説が薄いのよね、映画も短いけど。本をお読みになったらわかりますが、ほとんど小説をそのまま映像に置き 換えている。もちろんディテールで細かい違いはあるんですよ。
 本を読んでいて、気になっていたところの一つに、「トニー滝谷」の父・滝谷庄三郎が上海で監獄に入っている時に、次々に銃殺されているシーンがあります。 あの時に映画では、「突然連れ出されて、自動小銃で・・・」、と言っている。しかし本には、自動拳銃で、と書いてあるんです。
 なぜそんなことを覚えているかというと、自動拳銃という言い方がね、自動拳銃とはあまりしない。(オートマティックのピストルは、自動拳銃で間違いではない)。私が耳慣れているのは、ダダダダッという自動小銃。なんという話でもないけれど、自動拳銃と書いてあるんや・・・と思って読みました。
 私は別にことさら細かい人間じゃないのですが、そんな細かいことが、気になるくらい、ほんとにムードも話の見え方も、そういう映画のつくり方がしてあるんです。
  ところが、原作を読んで、映画もごらんになった方はご存じのように、本では父親が残したレコードを売り払ったら、彼にはほんとにもう、何もなくなった、彼は一人になった、そこで終わっている。
  しかし映画ではエピローグの部分で、彼は知人の出版記念パーティに出かけている。あんな場面は原作にはないわけです。そこで彼の妻の昔の男から、「あいつ 大変だったでしょう?」と話しかけられる。「あいつって言うな!」と憤慨して、彼は離れる。その後から「あんた、つまらん男だな!」の追い台詞。こんな場 面が出てきます。
 更にその後に、手袋のシークエンスもあります。昔のものは何もかも焚き火で焼いてしまっている彼が、その途中で、ふと焼くのをやめたのが、採用しかかった女の履歴書。半分燃えかけた火を消して、手元に残して、後日そこに電話をする。
 しかし彼女は近所のおばさんと、黄色い手袋か、紫の手袋かの話にゴチャゴチャ言っているところで電話には出られなかった、というところでエンディングですから、ずいぶん原作とは違うでしょう。
 今の話は、市川準さんが付け加えた物語なんですね。あそこには結構、物語が詰まっているから、そういう映画になっていると思うんですけど、これには好みがあると思います。私は小説の方がずっとすっきりしてるなと思っているわけです。
 先日、この会の打ち合わせで、神谷さんたちとしゃべっている時に、中村正さんは全体のテーマである「ひとりだけど、ひとりじゃない」ということに絡めて、この終わりのシークエンスについて語ったんですね。
 市川準さんの映画は、そこまでのことがあって全部で映画ですから、村上春樹原作の市川準作品『トニー滝谷』は、こういう映画になりましたということなんだけど、私、この時に思ったのは、村上春樹さんはこの映画を見たのかな、これを見て、どう思うのかなというような感想を持ちましたというところで、最初のグダグダしゃべりです。

神谷  かなり、この映画の背景とか含めて原作との関係もいろいろお話いただいたので、大分、今回のシリーズのテーマが「ひとりだけど、ひとりじゃない――虚構とい うリアル」というテーマでタイトルで選んでいった時に『トニー滝谷』というのを選んだ理由というのは、今、団先生がおっしゃったようにラストのシーンです ね。そういう意味で、ひとりだけど、ひとりじゃない、人とつながりあっていると、虚構という、実際に、もういなくなってしまった人の代わりを求めるとかのシチュエーションがあって、最後には、実は今そこに存在している人とつながりたいと思う『トニー滝谷』がいたという、そこが実は、この映画を選んだ理由でもあるんですけど。そこをお話いただいてしまったので、次にどういう話をしたらいいいのかと思いながら言葉を探しているんですけど。
 市川準自身は村上春樹の本と同世代としてらく読んでらっしゃって、あえてこれを採り上げられたというとはあると。原作に対する思い入れはおありになられたけど、でもこういう映画にしたという、そうなんですよね。

 『トニー滝谷』という小説の人物は、イラストレーターという生身の姿をもって画面に現れます。私も漫画家という仕事を3、40年くらい、大学4年生の時に最初に原稿料をもらって仕事を始めてから今に至るまでずっとやっています。漫画家で間違いはないんですけど、売れっ子ではありません。
 漫画家の私に関してずっと一貫しているのは、描けないものは描かないんですね。当然、思いつくものと描けるものとの間にもギャップがあるんですね。「あ、 面白いアイディア思いついた」と思うけど、描いてみたら描けないから諦めるということがあります。ほんとは描けるようになる努力をすればいいし、デッサンだの、クロッキーだのという絵を描く人としての技能訓練の問題はあるんですね。
 ところが、映画に出てくるトニー滝谷。学園紛争時代のキャンパスがチラッと出てきますけど、あの時に他の人たちに、議論してる暇があったらもっと描けと メッセージしているんですね。美術サークルとか漫画家の集まりに出かけると、描いているのか、喋ってるのかわからへん人がたくさんいました。学園紛争時代 のサークルなんて、なんのサークルでも、中心は語ることでした。
 そんな中でも、主人公は黙々と描いて自分のスタイルで描き上げるんですね。幼い頃からとてもリアリティのある絵を描くのですが、皆さんの周りにもいると思うんですけど、絵を描くのが本当に上手な子って居るんですね。努力の産物ではなくて。
 子ども時代に、花瓶の花を、皆できれいに描いているのに、彼は葉っぱだけ、じっと描いていて、先生は「うーん、まぁなー、君は君で、ええだろう」という シーンがあります。ああいう人って、早い時期から絵を描くということに能力の高い人なんですね。こういう人は漫画家の世界にもいましてね。
  こういう人たちがどんな苦労をするかというと、描けてしまうから、そこで努力を怠るんですね。そして努力のプロセスで身に付いてゆくプラスアルファーとの遭遇チャンスも逸する。
 それなりに上手な絵描きには、何でも屋さんという仕事があるんです。マンガとかイラストレーションの世界では、何でも描けるし、仕事も早い作家の需要はいつもある。「すんません、至急、子ども図鑑の絵をお願いします。400枚」。こういう注文が来るんですよ。1枚300円って安いなぁと思うけど、400枚 描いたら十二万円。テレビ見ながら、片手間にどんどん描けるんですよ。400枚描くのはそんなに難しくない。それでそこそこのギャラになるんです。なんで も描ける人の悩みはそこにあるんだけど、『トニー滝谷』は、あまり悩んではらへんのやね。

神谷 そんな感じでしたね。ずっと順調に仕事がうまくいって。

 1970年代、スーパーリアリズムが一時もてはやされて、写真よりもリアルということでね。「それなら写真撮ったら、ええやないか!」と悪口を言う人があっても、  私にはとても描けないから、悪口も言えませんでした。スーパーリアリズムを信奉している人は、写真は焦点を定めたところで、そこが一番リアルに写って、そのすぐ向こうはピントが甘くなる。スーパーリアリズムは全部に焦点を当てられるという。
 スーパーリアリズムの機械図面とか、完成物の展開図など、メカニカルで非常にカッコええところもあって、描く仕事には困らなかった時期ですね。ギャラもなかなか結構なもので。
 オーダーメイドで描く仕事が多いから、宮沢りえさんがお使いに来る注文にも、ABCいくつかのパターンを渡しているでしょう、芸術家ではないんですね。あの人は決定的に芸術家ではない。そういう意味で作品愛、自己愛のあり方もビミョウやと思う。学生時代、ギターを爪弾いていた時代には、自分の部屋にちょっと自分の描いたものを貼っているんです。自転車の絵とか。
 ところが仕事を始めてからは、部屋の壁に自分の作品とか自分のつくったポスターとかは全くない。極端に分かれるんだと思いますが、自分が描いたものをどんどん忘れていってしまって、前のもののことを覚えてない人と、描いたものを、なんべんもまた描き直したり、まとめ直したりしている人があるんですね。
 そんな風に見ていると、『トニー滝谷』は描けるということで、そこでずっと仕事をして生きてきた人やなと思った。そして、そういうタイプの人がもつ悩み方とか孤独感とか、そういう人が他者に求めるものを考えたとき、ちょっと私の中に意地悪い気分が出てくるんですね。

神谷 どういう意地悪い?

 そういうタイプの、トニー滝谷自身が、ちょっと意地悪なのは、ジャズミュージシャンのお父さんを見る眼差しですね。このお父さん、なかなか世渡り上手なんで すね。身辺が危なくなると、ジャズなら上海だろう、とあちらに行って、結構楽しい思いをしたりして。コツコツ働いている人から見ると、ある種の要領よさで 生きてきた人だと。アーティストの中にそういう人はいて、うまくやれるので、それ以上努力しない。それが悩みかもしれないですね。
 こういう人って、歳とってくると、昔の自分のコピーを生きていくんです。ナツメロ合戦に出ていったり、同窓会みたいなコンサートやったらウケるんですよ。
 だけど、そんなことをしていると、自分自身の感覚でも分かるんですよ。「古臭いな、前と一緒やな」と。同じことをやっていたら古くなる。同じスタイルで弾いていても、いつもその時代の空気とか風が通るようにしておかんかったら、ただのナツメロになってしまう。
 トニー滝谷は親父の演奏を聴きにいって「同じだけど、ちょっと違う」と、ボソッと言うでしょ。あれを聞いた時、トニー滝谷は、人のことはそういうふうに言えるんや、と私は思ってね。

神谷 なるほど。

 これは市川準さんの創作物で、そういう風に語らせているわけです。この辺ね、ものをつくる人のスタイルとか、関係を見る時のスタンスが、映画の中で前面じゃなく、語られているなと思ってね。

神谷 一方で、宮沢りえがやっていらっしゃる英子さん、彼女は自分自身の足りないものをつくりあげる。それをどこまで知っていたか、わからないけれども、一緒に暮らし始めて、それがどんどん顕著になっていきますよね。そのへんの関係性というのは、彼女はトニー滝谷と結婚したことによって、より足りないものに対する 焦燥感を煽られていったという、募らせていったという関係だったということなんですかね。二人の関係というのは。

 彼女自身がごく初期に、デートし始めた時に、自分のことを語って「私は、我がまま」とか「贅沢」とか言っていますよね。自分が可愛いということを知っている人が、自分から贅沢だとか、我がままだというのは、(女の人は苦笑いしていますけど)、ある種、特権的な発言の仕方ですよね。それを男の人が許すということを  承知しているコミュニケーションのやり方やから、先ずそこで私はブチッとくるんやけどね。そういうことを言う人、面倒くさいなと思います。
 でも彼女は可愛い以外に、たいして財産はない。彼女の欲望でお給料は全部消えるというけれども、給料以上にブランドものを買って、ローン300万円抱えて いるという女の人ではないわけです。そういう意味で、自分の収入額によって、中毒に近い傾向がコントロールされていた。けれども結婚して、そこにフレームがなくなったらワーッと広がるという、言うてみたら、主体性のない話でね。見た目は可愛いけど、私は要らないなという感じ。
 後で元彼に「あいつ大変でしょう」と言わせている。映画の話だからいいんだけど、あの男の捨て台詞はリアルで「あんたの絵もつまらんけど」という。なんか、あれはいわれのない、投げかけられた悪口というより、市川準さんは、どこの何に、あれを吐かせているのか、吐かれている対象がね。ちょっと面白いなと思いました、私は。

神谷 誰に対してか。「トニー滝谷」という市川準がつくった人物、もともとは村上春樹の人物ですけど、それに肉付けした、「トニー滝谷」に向かっているけど、もっと違う読み取り方もあるかもしれない。

 なんかね、あれだけのセリフしかない役の人も、割りの悪い役やと思うけど。

神谷 そんなことはないです。かなり目立ってますけど。大丈夫だと思うんですけど。その時、「トニー滝谷」に「トニー滝谷」が「もう忘れた」と。彼女は自分にとっては全く過去のことだと。自分の絵をほとんど飾らないという、彼の過去の自分がやってきたことについて、すべてか、ほとんど振り返らないというような、一方で はお父さんとの関係では、自分の生い立ちというところでの薄いつながりだけど、何年に一回かは会って、お父さんの最期も看とったりしていますよね。だけど 自分自身の仕事、ほんとに愛した女性であるにもかかわらず、「過去の人」とあっさりと言い切ってしまいますけど、そういう意味で、「トニー滝谷」というつくりあげられた人物ですけど、団先生は、お好きですか?

 「トニー滝谷」という、あの人物は、自分の人生ですから、自分でそれでいいと思ったり、自分て取捨選択していると思うんですけど。人ってさ、予め自分の中に持たせてもらえなかったものまで、自分にないってことは気がつかないでしょう?

神谷 気がつきませんね。

 あの人は愛したつもりやけど、考えてみれば、たまたま編集者の女の子が可愛くて、ガッと一目惚れするという、30半ばの。

神谷 15歳違うといっていましたかね。

 そのおっさんて、そんなに賢い人じゃないでしょ。

神谷 わかんないですけど。

 ちょっと賢さがあったら、もうちょっとね・・・。ただの買い物中毒の女、となったらね、そりゃーどっこいどっこいの組み合わせやと思うけど。そこに他人がいろいろ投影したところで、それは投影している人のさまざまな体験やけど、この人らにはない事でしょうというのが、リアルじゃないかと思いますよ。

神谷 なるほど。

 市川準さんが付け足した最期の焚き火のシーンでいうと、あそこにクロッキーブックが出てきましたね。あれ、最初にキャンパスを走っていた自転車の前の籠に入っていたものです。ほんとに自分の経過、過去、習作とか重ねてきたものを、全く廃棄してしまうということもね、できているかというと、できてない。
  積み重なった自分の過去とか、思い出とか、関係の記憶そのものが貧困という場合にね、それを貧困ととらえるか、そういうことに執着しないんだと言うかは、スタイルの問題でね。客観的に言えば、ないからでしょうとだって、言えるわけで。
 人物造形を考える時、誰かがつくりあげた人物を、読まされたり、見せられたりするこちらは、出てくる具体的なディテールを拾うことになる。
 すると、こういうパートナー選択をしたり、こういう仕事のあり方をしたり、何を大事にするとか、何を実現するとか、そういうことは、たくさん散りばめられているから、いろいろと理解も出てくる。
 こんなに何べんも見た映画は少ないですが、これはなんやろなぁ。
 宮沢りえさんに関していえば、主人公の女の人の人柄は置いておいて、前半、笑ってますよね、洗車しているところで。そして後半、クローゼットのところで泣いてますよね。市川準さんは、パンフレットの中で「宮沢りえさん演ずる女性が後半、クローゼットで泣くシーンを自分は撮りたかった。あそこは好きだった」と。作家がそういうんですから、いいんですけど、私は圧倒的に前半の洗車しながら笑っている、無心に洗車していて、最近、結婚した亭主が見ている、そっち を向いている笑顔のシーンが好きです。
 笑っている人が好きか、泣いている人が好きか、これはまあ、中身にもよるんですけど、そんな分類があります。
  泣いている人、困っている人好きの、助けたがり。それと幸せな人の幸せそうな顔が好き、という種類に分かれるんですね。
 お節介で、人が困っていると、そばへ寄っていって何かするのが好きな人がおるわけですよ。私、カウンセラーの仕事もしているから、私の仲間に、そういう人も多いんですけど。私、どこかでそれも面倒臭いな、と思っているところがあって、ほんまは楽しく元気で、ちょっと応援してあげたら力が出てくる人が好き、というところがあってね。
 笑っている宮沢りえさん。個人的な好みでいえば、前半の買い物依存のとんでもない女ですけど、でもあの人は好きで、後半の比較的に身辺の人たちとの関係も見える、堅実そうに暮らしている女の人は辛気臭いなと。そこも我ながら矛盾だな、という感じがするんですけどね。

神谷 そうですね。どうしようもない買い物依存症の女の方に引かれているという、実は、そうやという感じではありますよね。市川さんの映画で、構図も、この映画の肉付けをするに重要で、普通、映画でバストショットでとっている場合もありますけど、ちょっとずらして、非常に余白をたくさん使って、坂を登ってくる形で   頭から徐々に見えてくるとか、足だけを写しているとか、そういう構図が、この映画の一つの特徴という部分もあると思うんですけど。そのあたりも注目されて いらっしゃると思いますが。

 (絵画の本を提示しながら)これはエトワード・ホッパーという人の画集なんですけど、ホッパーのことを市川準さんは映画の中で、直接ではないんですけど意識していると書いています。映画をつくる上で、画面をどうしようかという時に、ホッパーの絵にあるような大きな空間の使い方を映画に、ということですが、あの 映画の空間、リアリティを欠いてますよね。

神谷 そうです。

 そんな、ごっつい窓の家って、おかしいし、どこから風吹いてるねん、という、吹きさらしの家って、台風の時になったら、どうなるのよという家なんですね。 とってもムードとか空間とか、ある種の、それはね、かなり積極的に、ご自分も言うようにホッパーの絵のスタンス、それが持っているムードを取り入れようと している。
 エドワード・ホッパーという名前でグーグルの画像検索をすると絵がたくさん出てきます。これはナイト・ホークスというニューヨークの街の夜。「夜更かしの 人々」というシリーズの一つで、カウンターがあって、二人お客がいて、中にバーテンダーがいて、カウンターの離れたところにポツンと人が座っている。こういう種類の、窓枠とか、広く矩形に切り取られた空間がたくさんあったりする絵を描く人なんですね。
  私はホッパーが好きで、展覧会とかやっていると、わざわざ見にいきます。昔、広島美術館で展覧会をやったことがありました。東京、大阪でやる美術展は宣伝 も行き届くんですけど、福島でやって、名古屋でやって、広島で終わりですというルートの美術展もあるんですね。そこでホッパーの作品展があって覗きにいったんですけど、平日の広島美術館、2時間くらい、私一人でした。盗んで包装して持って帰っても、わからへんかなというくらいのお客の入り方でしたけど。その時も、いかにもホッパーの絵やな、と思って見ていたんですけど、それが直接出てくるわけではないんですけど、とても意識した画面づくりをしてはるなと思いました。
 お父さんのステージを見た後、バーのカウンターで、最初はバーテンダーがいて、その後二人になって話していて、横を向いたトニー滝谷が「少し服を買うのを控 えたらどうだ」と言う。夜遅く、カウンターにわけありの人が二人並んで、他の世界とは、ちょっと離れたところで、何かやりとりがある。あたたかい余裕のあるような、一方で、大都会の中の、その人たちだけみたいな、ホッパーはそういうことを描くのが好きな絵描きなんですね。
 そういう種類の感覚が映画の中にずいぶん出てくるので、スタイルとしても、ちょっと、その意味で、ええなと思いながら、物語として、登場人物として、いろいろ考え始めるとね、「なんだ、こいつは」と思うんですけど、トータルにはね、なんだか心惹かれる、そんなことを・・・。

神谷 街の風景というか、横浜が写って空を大きく写して建物を下の方に写す。いろんな人たちが、いろんな暮らしをしているであろう、その一部であるんだけど、ほんとにそこの一部であるよりか、隔絶されている、自分たちだけの世界で生きている人たちというような関係をつくりだして、その中でドラマを展開させていって、その意味ではほんとに孤独という言葉を使うと、うまくこの映画のことを、どこまで表現できるかということですけど、『トニー滝谷』の立場の中に「孤独は牢獄だ、愛する人を見つけたから気づいた」という言葉もあったと思いますが、孤独とか、一人でいることを感じている人たち、誰かとつながりたいと思っているということなのかなというふうにも、ラストのところで、強く感じたんですけど。

 市川準さんは自分の映画として、どこかで終わらせないといけないのだけど、登場人物を全滅させるわけにはいかないから、続きますよね。だからレコードを処分 したら何も残らないというみたいな、そして一人になった・・・ではねぇ・・・。その意味で市川監督としてつくる世界は、そこでは終われない。という感じなのかと思った。
 村上春樹の作品は、そんなにたくさん映画になってはいないですよね。あれは作者がOKを出さないからですね、きっと。

神谷 そうですね。

 「いいですよ」といって、できた映画がこれで、村上春樹はどうだったのかな。

神谷 また最初の問いに帰るという感じですね。

 そこに戻るなぁ、という感じなんですね。

神谷 そこか小説の世界と映画の世界が全然違っていて、小説は文字を読んで、そこから想像力を、自分の世界をどんどん広げていける。映画はリアルに、映像として突きつけられるので、より作家、監督、脚本も書いていらっしゃいますから、監督の思いが、もっと具体的な形では表現されるということにはなるのかなと。そこの違いが、小説を読み終わって、余韻にひたっていないな、という自分と、余韻を一歩進んで、結末を何かつくりたいという意味で、『トニー滝谷』も、電話をして、電話をとってもらえなかったというところで終わってしまうという終わり方かな、というところが、小説と映画の違いとも思うんですけど。

 ただね、今しゃべっているこの話が「実は、そのシーンを書いたバージョンも、村上春樹の小説にあるんです」ということだったら、成立しない話になるでしょ。
 小説って普通は、これですと出されたら、長かろうが短かろうが、それが一篇の小説でしょう?ところがこの『トニー滝谷』に関しては、文庫本の後書きにも書いてありますけど、ロングバージョンとショートバージョンという話が出てくるんですよ。ところが、そうは書いてあるけど、ロングバージョンがどういうもの か、ショートバージョンがどういうものか、よくわからない。
 事実が分かってから、じっくり読み返してみると、ちゃんと書いてあるんですが、もう一つ合点がいかない段階で、「ひょっとして市川準さんが、付け加えたと 思っているシーンが、村上春樹さんも別のバージョンでは、それを書いていますよということだったら、話にならんな」と突然思ったのです。
 そこで昨日、大津市立図書館にいって検索PCで村上春樹の単行本、文庫本の他に出ている個人全集を当たってみた。その第8巻に、この作品が載っていて、ロングバージョンとある。これは既に読んでいるのとは、また別なのかということが知りたくて探した。
 ところが「ただいま貸出中」ということなので、急遽、京都のジュンク堂にいって、村上春樹の本の棚を探したけれども、見あたらない。何とかならないものか と思って書店員に、「村上春樹全集の第8巻、おいていますか?」と聞いた。すると「ちょっとお待ちください。あちらにいろんな作家の全集があります」と案内されて、個人全集の棚を探したらやっとあった。
 それを買って、書店の喫茶室でお昼にスパゲッティを食べながら読んでわかったのは、これは文庫本のと同じだということ。「なんだ、わざわざ買うことはなかった」ということが、全集第八巻1冊2800円で分かった。

神谷 えらい出費ですね。

 なんだ・・・と思ったんだけど、その本に挟み込まれていたのが、これなんです。「新たなる胎動、自作を語る村上春樹全作品」そこに彼がこんなことを書いています。
 「短編と長編をサイクルして書いていて、その間に翻訳を入れる。これがまた新しい物語を書くリハビリになる」と。
 「『トニー滝谷』はもともとは文藝春秋のために書いたのだが、ここに納められたものは長くのばしたストレッチ版である。ちょっとややこしい話になるのだか、僕は  最初にロングバージョンの『トニー滝谷』を書いた。これがA。そこから余分なものをギリギリまで切り捨ててはぎとってショートバージョンを書いて、それを 文藝春秋に掲載した。これがB。そして今回、全集に収録するにあたってBを改めて長く、二回目のロングバージョンをつくった。C。どうしてそんな面倒なことをするのかといわれても、僕にはよくわからない。しかしこの作品に限って、長く延ばしたり、短く縮めたり、いろいろと試してみたかった。レイモンド・  カーバーもよく同じように一つの話で長いバージョンと短いバージョンをつくっているが、確かにそういうのはある種の勉強にはなる。どちらがいいのか自分で はよくわからないが、ショートバージョン以上に短くなりようがないし、ロングバージョン以上には長くなりようのない話だと思う」。
 結果的にショートバージョンを私も神谷さんも読んでないんですね。それは文藝春秋から出ているいろんな人の作品の載っている短編集に載っているらしい。気 が向いたら読んでみてもいいかなともおもいますが、この作業がすんだら、別に『トニー滝谷』にそこまで思い入れんでもええかなと。だから多分、読まないんですけどね。
  晴れて、エピローグは市川準さんが付け加えた話です、ということになるんですね。『トニー滝谷』という短い話に、村上春樹は、結構思い入れがあるらしいんですね。どこに思い入れがあるのか、私にはわからないんですけど、また村上春樹論になるので、手に負えないことはしないという感じですね。

神谷 わかりました。このシリース「ひとりだけど、ひとりじゃない――虚構というリアル」をテーマに4作品上映してきまして、今日が最終ということで、『トニー滝谷』という映画をめぐって、いろんなアプローチ、背景とかを、少し、共有できたかなと。

 映画をごらんになって、話を聴かれて、すぐそこで喋りたくないという方の自由も大切にしたいと思うので、強要するわけではないけれども、もう一方で、映画をごらんになっても、それについてなかなか人と話すことは少ない。家族、夫婦と見にいっても同じ趣味ではないからね。そういう意味では、ここにたまたまいらっしゃる方、横の方、前後の方、2、3人でもいいんですけど、ちょっとこのことについて、我々が勝手にしゃべったことについて何かお話になる時間をとっ てみたらどうかな、と。どうぞ、右でも左でも、どなたかの顔を見てください。その方とちょっと感想というか、どう思ったかを話していただければと思います。

神谷 そういうお時間をとっていただいて、あとはロビーでお茶を飲みながら、という形で。では皆さん、少し、映画の感想についてお話いただくお時間ということで、よろしくお願いします。本日はどうもありがとうございました。



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