司会 それでは映画を見おわってからの対談ということで始めさせていただきます。講師の先生は弁護士の佐賀千惠美先生です。20年前、京都にお越しなられて弁護士として活動されています。ご担当されているものでも公になったものなら話していいということで、皆さんもご記憶にあるかと思いますが、八幡の聖神中央教会で牧師が信者の少女たちに強姦を続けていたという、少女たちの代理人をされたという事件も手掛けていらっしゃいます。ホストは中村正先生で立命館大学産業社会学部教授です。この映画の企画をご一緒させていただいています。
 最初にお二人の先生に映画をどのようにご覧になったかをお伺いして、討論を進めていただければと思います。佐賀先生からこの映画をどうご覧になられたかをお話いただければと思います。

佐賀 今日はありがとうございます。3つくらい、この映画、考えさせられました。一つは人を殺す理由があるかということ。二つ目は親子の絆。3つ目は宗教団体と犯罪ということですね。一つ目の人を殺す理由があるか。この「カナリア」の映画で、少女由希が最初の頃は「人を殺す理由なんてあるのか」と言っていました。しかし最後のころには光一のおじいさんに鑿を振り上げて「おとんと一緒だ。人間のくずだ」といって殺そうとする。ただ、法的手続きの関係から言うと、映画の光一と由希は12歳ですので、刑事裁判にはならずに少年事件の保護だけですね。14歳を境にして刑事事件にもなるか、少年事件だけかとなるんですが、由希は鑿を振り上げてしまった。光一については、おじいさんが自分の母親を「お前の母親は人間失格だ」と言った時に首を締めて「自分にはこの人を殺す理由がある」と思った。光一のお母さんについていえば教団のワークとして、テロ行為、殺人等の行為に手を染めてしまうということがあったと思います。人が人を殺そうとする動機について、一つ考えさせられました。
 二つ目は親子の絆についてです。光一のお母さんは子ども思いで理想を追求するところがありますが、子どもの意思とは関係なく教団に入れますよね。そのことがどうなのかという問題。光一は母親を慕っています。光一はニルヴァーナという教団、サンスクリット語で涅槃とかいうらしいですが、その教団に対する忠誠もあるかもしれないけど、母親への思慕が教団につないでいるところがあります。光一は母親に対して強い愛着を持っている。由希にしても亡くなったお母さんが自分を守っていると思っているという、親子の絆についても考えさせられました。
 三つ目は教団と犯罪行為です。たまたま今日の新聞によると、オウム真理教の幹部で起訴された中川被告に死刑が確定して、オウム真理教の中では6人目だと。教団と犯罪ということです。私自身は信仰を持たない人間ですが、でも宗教の自由、信仰の自由は大事だと思っていまして、宗教活動に対して規制はすべきではないわけです。しかし宗教団体による集団自決や犯罪行為も報道されています。何十年か前に南米で900人くらいの教団の集団自決があった。自決だからいいというわけではなく、その中には自ら望んだわけではない人たちも含まれているでしょうし、子どもたちにとっては無理心中ですので、心中させられる側からすると殺人ですね。そういうものもあって、アメリカでは2000くらい、外部に対する犯罪とか、集団自決などの危険のある宗教団体があると言われています。日本でも対外的な危険や集団自決などの危険のある、または詐欺的な行為、これを買わないと地獄に落ちるということで買わせる集団とか。先程ご紹介がありました八幡市の私が被害者の少女たちの側で代理人をやりましたもののように、教団の中でセクハラとか、その他の人権侵害がなされたり、信者の方の財産や労働力が収奪されたりする危険のある教団は、きちんとした統計はないのでしょうが、国内でも何百かはあると言われています。そういう問題についても考えさせられました。

司会 中村先生からもお願いします。

中村 この映画を企画していますが、今回は「裁きのそのあとで」というシリーズで、裁判員が始まりましたので裁判員制度にテーマをインスパイヤーされて置きました。裁きというのは一つの連続した行動の中の一つで、しかも重大事件しか裁判員は関与しない。殺人とか大きなこの種の事件は、裁判員が関与する事件になると思います。多くの人は相当ひどいことをした奴らだと厳しい判断をする可能性が高い。その際に何を考えなければならないかを考えたくて、その後どこまで伸びていくかということで「裁きのそのあとで」というタイトルで、社会の方が加害にどう向き合うのかということを考えたくて置いたテーマです。フィクションでナレーションが入りますが、明らかにオウム真理教事件を示唆していると思います。その他のカルト事件もかかわって、この映画はストーリー化されているなと思いました。
 端的に言うと、子どもにしてやられたという、子どもの持っている力に、この映画を見て敬服しました。それが一番大きな印象です。大人たちは一体何をやってるんだろうと。我々がそれに対して何を裁けるのかということでもあります。もちろん刑法に則って裁かないといけないことになるわけですが、もし裁判員でこの事件を担当したら私は何を裁くのだろうかと。たまたま幹部たちは公判で自殺してしまいましたが、もしこれが裁判になっていったら私は何を裁いたらいいんだろうかと考えさせられたテーマが入っています。
 子どもたちが旅をしているような絵に見えて、自分を回復していく、自分を取り戻していく旅をしているような映画だなと基本的には思って見ていました。光一君が万引きをやめるところから、この映画の最後は、ああいうふうに終わるしかないなと思っていました。研いだドライバーを凶器のように持っていて、人に向けたり、自分に向けたりするところがありますが、彼には自分で生きていく力があるのだなと、あの時点で私は思って、規範が入っている少年だなと。妹に飴玉のやりとりとか、ヘリコプターの飛行機の音を見上げる姿、由希が同じように折り鶴で飛んで行くところとか、実にこの映画は優しい映画だなと、全編最初から安心して見ていました。子どもの力を描いているなということは、いい印象でした。その中で大人たちが、親が勝手に信仰に入るということもあるんですが、大人たちの何を裁いたらいいのかなということを全編感じて見ていました。
 オウム真理教事件ではあるんですが、その前にイエスの方舟事件が起こっています。これは知らない人があるかもしれませんが、イエスの方舟事件はカルト集団ではあるんですが、自分の育った家が生きづらくて若い女性たちが家を飛び出していった。その後、行き着いたイエスの方舟という小さな宗教的団体で共同生活をしていた。ところが親たちが、何で自分の娘が出ていったかわからないわけです。それは親との確執があって娘たちはいづらくて出ていった。ところが世間からみると誘拐集団になるわけです。世間が騒いでサンデー毎日のジャーナリストが追っかけながらイエスの方舟集団は漂流を始める。逃げていくわけです。誘拐集団が逃げているというやりとりの中でイエスの方舟事件が起こってきます。これはまた別のテーマですが、人が生きづらい時、何かにすがったり、頼ったり、何か別のものに、ということがあるわけで、そこにカルト集団が存在すると、単に入りやすくなる。それでイエスの方舟事件との対比で言うと、単にとても狂信的な宗教団体だといって裁くわけにいかないものが、私たちの社会の側にあると、常に思っています。私、社会病理学者であるものですから。
 さらにこの映画の後、森達也さんというドキュメンタリー作家がオウムの中に入り込んで、リサイクル屋を運営している中に入り込んで、もう少し信仰を続けたいという人たちがいて、元信者たちが共同生活をしているところに入り込んで撮った映画「A」というのがあります。その続きに「A2」がありまして、これを見ますと、地域住民たちは「オウム出ていけ」と運動しているんですが、徐々に一緒にいる人たちほど、オウムを理解していくんです。そこがとてもよく描かれている映画で、オウムをよく理解していく、一緒にいる人ほど理解していく。地域の人も理解しはじめるという、元信者たちが立ち直ろうとしていることへの理解と対比して言うと、妹とおじいちゃんが逃げざるをえなかった、親も出ていけと、死ねと。ああいうふうに社会が追い詰めていく。立ち直ろうとしている人たちを追い詰めていくことを前提にすると、社会の側の問題がよく見えてくるので、一体何を裁けばいいのかなと。とはいえ極悪非道な悲しい事件が起こっているので、その複雑な感情を示している映画だと思って見ていました。

佐賀 そうですね。オウムの事件だと、信者の日常生活は森さんが取材されたようなものだろうし、この映画の光一のお母さんも、入る動機はそれぞれあって、一人ひとりはとても真面目な、理想を求める人たちなのかもしれません。しかし、オウム事件の結果というのは、地下鉄サリン事件があり、松本サリン事件があり、坂本弁護士一家も3人、殺されました。もう一人未遂ですけど、弁護士が殺されようとしたり。大変な問題で。マインドコントロールという言葉がオウム事件の時にさかんに言われました。マインドコントロールというのは法律が従前、持っていた概念ではないんですが、判決で二つマインドコントロールについて違う視点から問題になりました。一つはオウム事件の、松本智津男は別として幹部たち、地下鉄サリン事件を実行した幹部たちの弁護士が、心神耗弱である、マインドコントロールされてやったのだから、心神耗弱であるという主張をしたんですね。それは、裁判所は認めませんでした。心神耗弱という主張は。
 刑法上、心神喪失と心神耗弱があります。心神喪失は例えばとても病気が重くて妄想に取りつかれたりして、判断能力がない時は心神喪失、それはもう責任がないので無罪として罰しないわけです。中間的なもので心神耗弱という判断能力を制御する能力が衰えていた時は、有罪だが減刑ということで、死刑は回避できるわけです。オウムの幹部たちの弁護士はマインドコントロールされていたんだから、やらざるをえなかった、だから心神耗弱だと主張しましたが、それは、裁判所は認めませんでした。
 しかし反面、被害者の側から見て、八幡市の牧師の少女たちへのレイプ事件、あの時はマインドコントロールされている少女たちについて準強姦を認めたんです。被害者の側ですから見方は違うんですが。強姦罪というのは、被害者が13歳を境にして、たとえば12歳とか10歳の少女を姦淫したらそれだけで合意が仮にあっても強姦罪。たとえば16歳の少女を姦淫する時は暴行脅迫という要件が必要で、暴行したり脅迫したりして抵抗できないようにして姦淫したら強姦罪ということです。これに対して準強姦というのがありまして、それは典型的にはお酒を飲んで結果として泥酔して抵抗できない抗拒不能の状態にある人を姦淫したら、準強姦罪。自分が暴行脅迫を加えてなくても、抵抗できない状態に乗じる準強姦罪というのがあるわけです。牧師にレイプされた少女の年齢は、12歳もありました。それは普通の強姦罪で起訴できたわけです。しかし被害年齢が15歳とか、そういう被害の時は暴行脅迫がないと強姦罪では起訴できない。牧師によってマインドコントロールされていて心理的に抗拒不能だったということで、あの事件は検察官は、15歳くらいの被害の時は心理的に抗拒不能だったとして準強姦で起訴したんです。
 私はすごくびっくりしました。思い切った起訴だったですね。お酒を飲んで泥酔状態とか、麻酔を嗅がされて抗拒不能というのはわかりますけど、心理的に抵抗できなかったというので準強姦というのは今まであまりなかったので、どうかなと、思っていたんですが、裁判所は牧師に準強姦を認めたんです。少女たちは小さい頃から、牧師のことを神と等しいと思ってマインドコントロールされていた。それで抗拒不能なんだということで、その部分も有罪なんです。牧師は懲役20年に処せられて、今、受刑中です。
 それは加害者がマインドコントロールされていたときと、被害者がマインドコントロールされていたときとで、ダブルスタンダードだというご意見があるかもしれませんが、私は矛盾していないと思っています。オウムの幹部たちは立派な大人だし、学歴もある。被害の少女たちは15、16歳で被害時は低年齢でしたし、物心ついたか、つかないうちから教団に親につれられていってずっと牧師を神に等しいと信じ込んでいるわけです。年齢的なことやそれまでの環境から、嫌だとは言えないわけで、それを準強姦とするのは常識に叶っているなと思うんです。私は被害者側の弁護士ですが、それにしてもよく検察庁が準強姦で起訴したなと。裁判所はどう判断するかと注目していたらそれを認定したので、法律家として見ると、画期的なことだと思いました。

中村 今の話はマインドコントロールというある特殊な心理状態をどうみるかということで、それが刑事事件になった場合にどう考えるか。被害についてはマインドコントロールを認めて、加害については認めずに責任があるという、スリリングな話を法的に整理されました。それとこの映画を重ねますと、どんなふうに見えてくるんですか。これはこの教団、光一が立ち直っていこうとするプロセスを描いています。裁かれる側は自殺するので、その論点は出てこないんだけど。

佐賀 ちょっと話はぴったりあうかどうかわかりませんが、裁判員になられたら重大事件を扱うわけですね。殺人とか傷害致死とか、強姦致死とか。その被害人に対してどう考えるかということに直面するわけです。映画の光一のお母さんが、もし起訴されたとして、ほんとに組織的な事件に裁判員が関与するかはまた別の問題ですけど。たとえば暴力団などの組織的な事件には裁判員を関与させないことができるので、ニルヴァーナの事件が仮に起訴されたとして、裁判員が関与するかどうかは微妙です。仮に裁判員が関与したとして、犯罪の結果はとても重大だし、私はマインドコントロールが心神耗弱にあたると言えないとも思うんですが、極刑は避けるべきかな、と。
 裁判員になられた時の論点は二つありますね。まずやったかどうか。無実なのか、それともやったと考えるのか。たとえば足利事件のように犯罪をしたのか、していないのかという問題があって、それはまず、していなかったら量刑は問題にならないわけです。その論点と、仮にやったのは間違いないと認定するとして、それにどういう刑を課すか。死刑、無期懲役、有期懲役、懲役でも執行猶予をつけて刑務所にすぐにはやらないということも可能です。そう考えると、マインドコントロールは心神耗弱に該当して、減刑事由になるとは思わないけど、量刑のところではずいぶんと斟酌すべきかなと思います。

中村 つまり極刑は避けるべきであると。マインドコントロール下での。たとえ幹部であっても。

佐賀 そうですね。そこはとっても難しいんですけど。私の死刑に対する考えは、死刑自体を廃止するというところまでは今の日本ではコンセンサスはないと思いますが、死刑にする判決は極力、ほんとにどうしようもないのかどうかについて慎重に検討して、とても限定していくべきだと思っています。死刑廃止論ではないんですが、実際の適用は極力避けるべきだと思っています。オウム事件の幹部たち、死刑が確定したのは6人目ということですが、私の記憶だとサリン事件でも元医者だった人は第一審判決は無期懲役だった。それは反省しているとかいろんなファクターがありますが、ほんとに死刑をもって臨まないといけないのかというのは、十分に吟味しなければいけないと思っています。ただどうしても死刑にすべきだという事案は残るだろうと思っていますので、死刑自体の廃止は今の日本では早いと思います。

中村 死刑の話は、前回の映画がそういうことだったと思います。前回もそれによく似た議論があったかと思いますが、今回はマインドコントロールによる責任能力の程度ですね。どこまで我々が裁きの対象にできるか。さらに私がこの映画で、そのことに引っかけて言うと、皆さん、どなたに感情移入して見ていました?   光一君の少年時代は私の少年時代に重ねて見ていましたが、一番感情移入したのは、矢島さんなんですよ。あの人はある種、現実に戻ろうとしている。責任という点では自分で規範を立てておられる。信仰ではなく、もっと現実的な世界に生きようとする力があって、でも自殺する人たちは最後まで信仰が強くて。その分岐点があるなと。幹部だったのかどうかということもあるんでしょうが、この分岐点でこっちの世界に戻ってくる、現実の世界の中で規範は規範で立てようとする。しかし信仰は信仰であるかもしれない。自殺した人たちは完全にマインドコントロールの中に強くあるなと思うんですね。

佐賀 そこはとても難しいですが、最後は人間って自由意志があるか。刑法の議論で、人間はもって生まれたものと、環境という二つの要素があると言われるわけですが、最後のところで踏みとどまれるかどうかは、持って生まれたものと環境の両方によるのでしょうけど。その人の持って生まれたものプラス環境そのものなんだろうなと。教団の中で最後まで忠誠を尽くすとか、理想を求めるのも、ある意味でプラスの評価もありうるわけで、でも、大量殺人とか人に対する加害まではしないという、そこを踏みとどまることができるかどうかは、矢島さんの持って生まれたものなり、環境そのものなのかなということで見ていましたけど。

中村 少年刑務所で加害者の更正の心理的な援助をしています。加害者には、刑務所に行って取り組みをしたり、虐待するお父さんたちには、児童相談所で虐待の事実を認定した後、親子分離をしていくんですが、これまで親たちがほったらかしだったので、親たちにアプローチできれば、ということで加害者治療をしています。そうすると何かうまくやれば変わっていく人たち、それでも変わっていかない人たちがいて、持って生まれたものが関係しているというと教育者として耳が痛いなと思うんだけど、そこはちょっと違うものもあって、アプローチをうまくすれば今まで思いも及ばなかったことが、ある変化が起こってくる人たちがいて、これは勇気づけられるんです。具体的にそういうことをしてこなかったから、再犯防止、いずれ刑務所から出た場合、親子再統合した場合になるので、過去のことに対してアプローチするんだけど、それは未来のことに対して予防的にやっているわけですね。そうすると、中には強い信仰があって「あなたの中に悪魔がついているのでセックスをして取り除かなければならない」という強い思いを持っている人がいて、性犯罪ですけど。この人たちが入ってくる。そうするとこの人たちに対して、どんなアプローチをすれば心理療法的に解けるのか。私は悪魔祓いをすることしかできないのか。「あなたの中にも悪魔がいますよ」と。もう少し現実的な世界に取り戻して彼のやったことと、信仰を分けて考えていこうと。信仰の方で説明しようとするので、それを逆転させないといけない。こういう作業をしたり、単にしつけだと思ってやっている強いタイプのお父さんたちに対して「そうじゃないですよ、子どもの利益は大事ですよ」という話をしていくと、死刑の前にもっとやるべきことが一杯あって、やらないといけないことが一杯あって、それをやらなくさせてしまう、死刑というのは、極刑というのは。そこは忸怩たる思いがあって、社会の方で追いやってしまったものがあるとすると、この社会は必ずしも暴力を否定する社会ではありませんので、追いやっていった履歴を見ますとね。社会の方にも責任があって、死刑や極刑の前に何か、厳しい処罰でもいいですが、それとともにやっておかないといけないものがあるのではないかと思うんです。

佐賀 それはもう、その通りですよね。先生がいろんなプログラムをしていらっしゃるというのは、詳しくは存じあげないですが、お聞きはしていて大事なことだと思います。そういうプログラムの中で変われる人というのは、ずいぶんいると思うんです。1000人いて最後の一人まで変えきれるか、それはわかりませんけど、かなりのところまでは変えられるだろうし。100%ではないかもしれないけど、それはとても必要なことだと思います。
私の弁護士の仕事としては民事・家事が8割ですが、刑事事件も2割くらいやっています。その中で性犯罪の弁護人も頼まれるんですね。ある時期、一生懸命いくつもの性犯罪の弁護人をやったことがあるんです。中には若い20歳前後の人で、たまたま仲間たちとワーッと盛り上がってしまって性犯罪をやってしまったんだろう、この人は刑事裁判を受けた後、二度とやらないと思える人もあります。しかし、その一方でこれまで性犯罪を何回もやってきたような場合、これからほんとにやらないのか、今は心から反省していると思うのだけど、ほんとに今後は全くやらずにいけるのかなと一抹の不安を覚える人とがあります。それは中村先生がやっておられるようなプログラムで対応していかないといけないんだけど、中に今後の不安がある場合はありますね。

中村 マインドコントロールを解く、脱カルトもそうだけど、その後のケアはいろんな手順があって大事なんですね。光一君は逃げましたけど、東京都の児相(児童相談所)と山梨の児相が山梨のオウムの子どもたちを預かって、日本ではないタイプの集団的な脱カルトのためのマインドコントロールを解くためにケアに入ったんです。大事な記録が残っています。どういうふうにしてやったらあの子どもたちはきちんと日常に戻っていけるか。光一君は自力で旅を続ける形で日常を取り戻していくんですが。脱カルト、マインドコントロールを解いていく、急激に価値観が変わると人間は崩れてくので、それを丁寧にやる仕事がいるかなと。カルトだけではなく、強い信念を持って、しつけとか、男は妻を殴っていいものだとか、DVですけど。強い信念を持った人との心理的な格闘をしていると、ある見えてくる変化があって、裁きの後でしなければいけないことがある。罰だけではなく、罰に加えて何かをアプローチする。法と心理の連携ですが、とても大事なテーマがあるのかなと思っています。

佐賀 刑務所の中でもそういうプログラムはできると思いますし、それはとても大事だと思います。

司会 この映画の中身ということで言えば、社会のありようというのが、ずっと今も現時点でそうですが、問い続けられている内容かなと。子どもたちが生きよい社会を、どういうふうに大人としてつくっていかないといけないのかということも考えさせられた作品でもあります。

佐賀 法律や司法制度は今、変革の時代です。明治時代以降ほとんど変わらなかったといっていいほど、第二次世界大戦の前と後でも、あまり変わらなかったじゃないかという司法が、今、すごく変わってきています。弁護士の数も増えましたし、法律だって憲法は別として、改正や一部いじられない法律はないんじゃないかと思えるくらい、この間変わってきました。さらに裁判員の問題も出てきたということで、この時期にこのテーマでこの企画をもたれたのは、すばらしいなと思いました。ありがとうございました。

中村 映画が面白くて企画しているんですが、今日の映画はいろいろ練りこまれて、いいなと思うんだけど、象徴的には手がよく出てきたなと。おばあさんの鶴を折っている時間が長がったんですよ。肩に手をおいてレズビアンカップルか喧嘩しているところ。二人が手をつないでいる。皆と握手したくなりまししたね、今日は。とても印象深いシーンがたくさんある、技巧派だなと思いつつ。95年に起こったオウム真理教事件はインパクトがあるので、当時に阪神・淡路大震災が起こったり、9・11が起こったり、いろんなことがあった同時代の、いい映画だなと思って見ていました。

司会 ありがとうございました。これで会を終わりたいと思います。このシリーズはこれで終わりますが、皆さんにアンケートをお配りしていますので、ご要望とか映画についてお知りになりたい方はパンフレットをお買い求めいただきたいと思います。11月頃、新しいテーマで企画したいと思います。1、2、3月には別の先生方のチームで企画が進んでいますので、またご案内させていただきますので、ぜひ会場でお目にかかりたいと思います。本日はどうもありがとうございました。



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