司会 これからお二人の方に映画をめぐってのこと、さらにこのテーマ、「裁く」ということ、加害と向き合うということ、さらにこの企画は裁判員制度を通して、私たちがこれからどういうふうに裁判にかかわっていくのかということも重要な切り口だと思っていますので、そういうことに触れながら、死刑囚と刑務官の話でもありますので、死刑制度のこと、刑務所の場についても触れていただきながら、お二人にお話を進めていただきます。上田寛先生、望月昭先生のお二人にはご自身のご専門のことをお話しいただいて、映画のご感想をいっていただき、望月先生はこの主催の人間科学研究所所長でもありますので、ホストということで主に聞き役に回っていただき、お話を進めていただきます。私はタイムキーパーとして座らせていただきます。それではよろしくお願いいたします。

望月  このシリーズは「“裁き”のそのあとで」をテーマとしていて、第2回目となります。今回はまさに裁きのあと、しかも死刑というその裁きのあとの、間近な直接の状況を追体験したような、死刑の問題もそうですが、生きることも対比して、何度も現れてきた、細かい心の襞とか交えながら、その中にドンと死刑がある。いろんな角度から考えさせられる映画ではないかと思います。
 今日は上田先生をお招きしました。法科大学院の建物の中で、固い建物の中で人間科学研究所を中心に、広く、いろんなニュアンスで市民と一緒に考えていきたいという試みの中で、今回、法科大学院の主のような方に来ていただきまして、すぐ横の研究室からお招きしているわけです。
 私の立場は人間科学研究所で、このシリーズも含めて、長らく対人援助、人を助けるとはどういうことだろうということをテーマに考えてまいりまして、特に僕の個人的な立場は行動分析学というものですが、行動は何かを定義する時、「死人にはできないことはすべて行動」という定義があるんですね。死刑という、死ということに関してはかなりお手上げというか、生きているからこそ、行動があり、それを我々はどう助けるか。死刑そのもの、死を迎えてしまうあり方についてはスケールアウト、埒外な感じもあるわけです。もちろん社会の中で、死刑というものは厳然とあって、それに対して賛否両論あるわけで、そういう文脈の中で我々の仕事が無関係でないことはわかっているんですけど、今日はあまり専門的にこれまで死、死刑というものを考えたこともなかったので、上田先生に、死を持って報いさせるいという社会制度の問題、僕らからすると罰を人に与えることで社会が成り立っていくという、そんな風にもみえる刑法がご専門とされている先生でもありますので、そのへんから世の中に死刑というものが、一体それはどういうふうに根拠づけられて存在しているのか。あたりまえに死刑は有史以来ある中にいますけども、現在、死刑がどんな形で存在しているのか、そして問題になっているのか、ちょっと最初にお話を伺ってみたいと思いますので、よろしくお願いします。

上田 もともと吉村昭という作家が好きだったものですから、彼が死刑の問題についてどう書くかということには多少興味がありました。ただ、原作の小説は極めて短いもので、刑務官の仕事の中で死刑の執行ということは確かに出てくるんですが、それ自体を詳しく書いたものではなくて、中年男性である刑務官が再婚の女性と結婚して、その子どもをつれて旅行する中で、女性、子どもとの間で緊張した関係がだんだんにほぐれていくプロセスを淡々と書いた小説だと思っていまして、それをどういうふうに映画にするのかなと考えていましたが、こうして観てみると「映画をつくる人はすごいな」というのが実感ですね。
 非常によかったです、映画として。感心しました。映画自体の感想を詳しく述べることは、しかしやめておきますが、死刑制度というのが一つのテーマであることは間違いないので、それについて少しお話しておきたいと思います。
 わが国の刑法では殺人、強盗殺人といった重大な犯罪、12種類ほどの犯罪に対して死刑が法律で決められています。殺人罪などですと、死刑あるいは無期または5年以上の懲役となっていますので、いくつかの種類の刑罰の中から選ぶという形で死刑になるわけです。その適用ということを見ますと、実際にはあまり裁判所で死刑を言い渡されることはありませんでして、年間、死刑が確定する人数は、数人ということが続きました。近年、ちょっと増えてきまして、2004、20005年あたりから二桁になっています。2007、2008年では20数名の死刑が確定しています。それに対して死刑の執行はまた別の話でして、死刑が確定しますと、6カ月以内に執行しないといけないというのが刑事訴訟法で決められているわけですが、しかし具体的な執行には法務大臣の執行命令が要る。法務大臣は日本では半年で変わったり、1年もいる人は少ないものですから、自分の任期中にあまり命令を出したくないもので、横においておいたりしまして、なかなか命令をしないんですね。最近では,鳩山法務大臣が多くの執行命令を書きまして、話題になりました。2008年には15人執行しました。ずいぶん増えたわけですが、しかしこのようなことは異例でありまして、一般的には執行をひかえるような傾向があるものですから、実際には死刑が確定しながら、執行されていない死刑囚が全国で今、100人以上おります。6カ月以内に執行しないといけないというのはどうなっているのかというと具体的に法務大臣の命令がないことと、それぞれが再審請求をしたり、上申書を出して恩赦を嘆願したりということをしているために、その期間に関しては6カ月間に数えなくてもよいとなっているために、こういう状況になっているということです。
 映画の舞台はどこの拘置所かなと思って観ていたんですが、日本の場合、全国で7カ所の拘置所にしか死刑の執行施設がありません。このあたりですと大阪。高等裁判所が存在している都市の高松以外のところにあるというのが現状です。死刑の執行は、たまたまそれらのどこかで行われている、ということです。
  そこで、日本では2008年、15人の死刑執行が行われている。これが多いか、少ないか、そもそも死刑の執行自体、死刑制度自体が人道にもとるということで廃止すべきだという議論があるわけです。国連の総会や委員会で何回か死刑廃止の決議が行われています。EU諸国、ヨーロッパではEUに加盟する国では死刑制度はあってはならないとされているものですから、ヨーロッパには現在は死刑を執行している国はありません。制度もありません。大きな国として死刑制度を持っているのは日本とアメリカ、中国、インドといった国々になってしまっているわけです。死刑制度を運用している国の方が現在では少数派です。そういうこともあって、ヨーロッパの基準に合わせるべきであり、わが国でも死刑制度は廃止すべきだという議論が非常に盛んですが、一般の世論では、死刑廃止論は少数派です。死刑制度をそのままにしておけ、現在の形で残しておくことでよい、という世論が多分、8割くらいを占めている。しかも近年、却って増えている状況にあると思います。こういう状態自体がおかしいという人もおりますが、事実は、そうなのです。そして、必ずしも歳がいった人、老人ばかりがそう言っているのではないんですね。法科大学院、法学部で法律関係のことを勉強している学生諸君であっても、多分、7、8割は、死刑制度はそのままにしておけという主張ですね。以前とはかなり変わってきていまして、これが何によるものかということは文化論的には興味があるところです。ですが、私などはそういう一般の感覚は、それはそれで大事なことであって、司法制度を支える根幹のところは、一般の人の正義感、司法に関する感覚にあるのではないかと考えるものですから、無碍に否定する気にてらないということなのです。しかし刑法学者の中では、私のように言うのは却って少数派になっています。ヨーロッパ、国連とか、そういう基準にしたがった方がよいという主張が、かなり有力なのです、学者の中では。
 そういうふうな状況を背景にして今日の映画を観ると、淡々と職務として死刑の執行に携わっている人がいるということを改めて見せて、そのような制度があるためにそういうことをやらざるを得ない人たちのことをどう考えるのか、そういう人々の苦悩を全く無視してもいいのか、ということを考えさせることになっているのかもしれないな、と思ったりしますね。

望月 実は今、8割の人が死刑制度に賛成だというのを聞いてびっくりしたんですが、人道主義云々という、人道主義は何かというのはややこしいんですが、法律的な意味で死刑制度はア・プリオリに存在したとはいえ、プラグマティックというとなんですが、死刑を逆に言うと、なくしてしまうと凶悪犯がもっと増えるとか、被害者意識という言葉も最近よくあります。被害者が法廷に出られない、意見を言えないということがあって、それに報いるために加害者が極刑になる。被害者からすれば身内を殺された人からすれば、当然ながら撃ち殺してやりたいと思う、ある種の反映として、対価として加害者が死刑になるというのは、いくつかの軸で、死刑というもの、刑罰そのものも、そうだと思いますが、基本的な話ですが、量刑、特に死刑というのはどういう根拠で、特に極刑は存在するんでしょうか?

上田 刑罰制度自体は最終的にはその国の文化の度合い、歴史的な背景を持った文化の度合いによって、枠組みや基準が決まってくるのだと思います。現在でもイスラムの国々では石打ちの刑がありましたよね。犯人、受刑者を、男ですと裸にしまして腰まで土の中に埋めておいて周りから人が石を投げて死ぬまで続ける。こういうものが野蛮だと、眉を潜める人が日本だとかなり多いでしょう。しかし、かといってわが国で死刑がなくてもよいとは多くの人は考えない。そうすると、刑罰というものに対し何を基準にしてこれが残虐な刑罰である、過剰な刑罰である、妥当な、軟弱な刑罰だと考えるかということは、本当のところはよくわからないんです。具体的な適用の局面では、基準は被害の大きさだと思います。被害の大きさは犯罪者に対する非難の強さですね。犯罪者に対する非難の強さが刑法上の言葉で言うと責任の問題になってくるわけです。刑法上の責任があるということは、犯人に対して、その「行為者」に対して、非難が可能であるということだと考えられます。しかし、非難可能だといっても非難には大きさがあるわけですね。それは被害の大きさに対応するのが当然で、被害が大きいほど非難も責任も大きくなり、そして刑罰も重くなる。そうなると、最後のところは人の生命を奪ったものは生命を奪われるというのが一番まともな姿ではないか。誰が見ても、犯罪行為にふさわしい刑罰です。
 ところが、「目には目、歯には歯を」という昔のハムラビ法典のような、メソポタミアの古い法律の制度を例に出しますと、そういう時代から我々は抜け出してきたのだ、文明社会に足を踏み入れたのだ、と考えられているわけです。だから昔のように歯には歯、目には目、命には命とは言いませんけども、しかし最後のところで人々が公平な、ふさわしい刑罰だと思う根底には、行われた犯罪によって引き起こされた「害」にふさわしいということがあると思うんです。それを、文明の度合いとかその国の歴史とか、時代、時代の経済状況、社会状態、人々の気分で修正しながらだんだんに緩和してきたのが刑罰の歴史だろうと。ところが最後の最後になると、やはり、人を殺していながら、のうのうと加害者が生きているのは許せないという感じになってくるだろうと。このことへの考慮を抜きにすると、法律とか裁判制度は不公平だ、ちゃんと我々を守っていないという意識が強まってきて、最後のところでは、その国の法的な安定性、司法に対する国民の信頼にかかわる問題になってくると思います。一方的に、一般の人の意識を素通りして刑罰を極端に軽くすることはできないのではないか、と。一般論ですが。

望月 こういうふうにまともに話を聞いたのは初めてですが、戸惑いもあるというところもあるんですが、一方、EU等で死刑が廃止されたという合理性というのは何か、今のようなお話とは違うものがあるのですか?
上田 よく引き合いに出されるのは、EUの政治的指導者たちにはナチス・ドイツの厳しかった刑罰制度に対する反発があり、第二次世界大戦の後の緊張状態の緩和があり、いわば理想的なものを先取りする形で文化的に一種の模範を示すべきだという主張があったということです。それで、一般の人々の意識を自分たちが指導していくんだという発想から、一種の理想主義だと思いますが、そういう点を前面に出して基準をつくっていったということではないかと思います。  死刑に、そもそもどんな意味があるか。私が申し上げたような価値的な問題ではなく、実際に意味があるのかという議論もあります。長い間死刑制度をもってきたが、犯罪は一向に減らないじゃないか。日本を見てもそうですね。そうすると、やってもやらなくても同じなら、国が手を汚すことはやめておいた方がいいんじゃないか、という議論さえ成り立つと思います。そういう点ではヨーロッパの一つの決断ということがあって、そういうものがまさに一種の理想的な立場であるし、文化だと考える人たちが多いということではないかと思います。ヨーロッパの国々の方が日本よりも殺人や強盗といった犯罪は多いのですが、それでもそういうふうにしているということですね。

望月 公平性ということは、ある種の理念であると思うんですね。今日の映画を見ていて、ある種の合理性というのは、死に対して個人が負うペナルティ、負担感、苦痛というもので考えた時に、今のを見ていると、実は死刑になるまでのペナルティが強いですね。最後の処刑は石を投げられるわけではなく即死状態になる。8割方が賛成という流れの多くの言質は、犯罪が増えてきて、少年犯罪等の問題でもよく言われることですが、罰則を強くすればそれがなくなるだろうと、そういう雰囲気もあると思うんですね。この頃、凶悪犯罪、秋葉原の問題とか、実は自殺に近い行為、それを自分でしないで、人にしてもらうというのに、何か死刑みたいなものが、今のこの状況よりは死刑の方を選ぶという、そんな流れの中でも話があるような感じがするんですね。そういう意味でのペナルティになっているかどうか、公平性の点からいってもどうなのかなと思うし、日本の若者が逆に死刑制度に賛成が増えているというのは怖いようなきもするんですね。
 私の専門でやっている行動分析学はスキナーという人か始めたわけですが、先に申しましたように、死人は議論の対象にさえならないということがあるんですが、死刑を離れてペナルティということ、その事自体に関して、人を罰で動かそうと思っても、当然ながら責任を果たすとか、罰金を払わせるとか、労役をやらせるということで支払わせるのはいいんだけど、単に苦痛を与えるということで、何かそこから生まれるかどうか。そういう意味での意味を考えるのは、筋が違うと、法律家からは思われるかもしれないけど、罰から何も生まれないと。この100年くらい、科学技術が進歩して病気から解放され、労働からの苦役からも、科学技術か進んでことで解放された。一貫して進まないのは、人が人を罰的な行為によって動かそうとすることなんだと主張しています。実はそのことによって心の病気が生まれたり、戦争がなくならない。それは抜本的に考え直した方がいいのではないか。とりわけ日本は、アメリカもある種、そうなのかもしれないけど、我慢する、ルールを守る、皆で一緒にやるということは極めて強い。あってはならぬこということで人の行為を「べき」論でとらえて、法律ではあたりまえですが、守らないとペナルティがあるという、結構、日本はそういうものは慣れてきているような民族でもあって、「罰なき社会」というテーマはスキナーが日本に来た時の講演のタイトルで、それは世界中で注目を浴びた話なんですけど。どうして人は罰をもって人をコントロールしようとするか。簡単に言えばてっとり早い。相手を黙らせることができる。むしろ相手が何か喜びながらできることをしてうまくコントロールすることは時間がかかる、待てない。そういう特性からつい我々は最後まで罰をもって人をコントロールしようとする癖からなかなか抜けられないというような言質もあるんですね。

上田 今、望月さんのお話を伺っていて、改めて先程の映画は、ずるいなと思うのですね。それは死刑囚が、まず、男前であること。静かな絵描きであること。それはいいんですけどね、彼がどのような犯罪をやったかは全然語られないんですね。映画の中で見る限り、彼は精神的に苦しい状態におかれている。苦悩している。最後にはあまつさえ殺されてしまうというのは、しかし現在の刑法制度が悪いからではなく、彼がやったことが、その出発点だと思うんですね。本当はね。死刑囚として刑が確定して上申書を書いても全然見向きもされないという状態は、おそらくは強盗殺人とかの犯罪で複数の人間を殺害しているというのが、日本の刑罰の相場としては妥当でしょう。そういう事実・状態を前提として話が始まらなかったら、そこのところはちょっと切り取られてしまって、途中からというのは問題があるように思うんです。
 わが国では犯罪が実際にはそんなに増えていないんですよ。望月さんがおっしゃるように、秋葉原の事件とか池田小学校の事件とか、破滅型の攻撃が非常に目立ちますね。それはそれで困った、恐ろしいことであるし、一般社会が緊張したことは確かにそうなのですが、現象として統計上だけで見ると、わが国の犯罪は全体としても増えていないし、殺人などは我々の学生だった60、70年代に比べれば半分になっている。そういうふうに現に犯罪は減ってきているのだけど、人々の当罰感情はきつい。その根底には犯罪が増えて危険な状態になってきたという意識がある。このギャップが非常に大きいですね。
 なぜこうなってきたのかということ自体が一つの研究素材ですが、それについて言われているのは、昔のように盛り場でヤクザが関わるような形で、つまり一般的に言うと市民社会の外側で、行われていた犯罪が市民社会の中に入り込み身近になってきたからではないか、ということです。そのあたりが原因じゃないかということを含めて、先の問題はちゃんとした検証が必要だろうと思っています。そういうことを踏まえた上で、それでは刑罰で犯罪をどこまで抑えることができるかといえば,その答えはかなり悲観的です。もっと処罰せよ、少年たちに対する刑罰が甘いからこうなったんだと言われますけど、現に最高の刑罰としての死刑は存在してきたし、これはもうちゃんと執行もされている。にもかかわらず犯罪がなくなるわけではないのであって、歴史を通じて我々はそれをずっと背負ってきたわけです。そういう点では、今後、刑罰を重くしたら犯罪が減るということも望み薄だと思います。
 それはもう、それだったら犯罪と刑罰を論じることにどんな意味があるのかと言われそうですけどね。犯罪を減らそう、被害を減らそうと努力はしますけど、かなり難しい課題だと思います。

望月 私もこの映画を見て、ずるいと思ったのは確かに同じなんでね。原作等に比べて淡々と進む。今日、ご覧になって、必ずしも死刑廃止を訴える映画でもないですね。1回目に見た時、こんなハンサムな青年だし、みたいな、最初から仕組んでいるなと思ったんだけど、今日もう一回見ると、生きることの対比として死があるという、刑法、法律よりもう少し深いところを訴えかけるのではなかったかと思うんですが。それにしても今回出てきた刑務官の話だととらえると、ややデフォルメめいたこともあるかもしれないけど、皆、生身の人間が直接に死に立ち会うということはこういうことなんだよと代理にやってみせてくれた。最初は、僕も仕事なんだから、こういうことはもっと淡々とやるだろうと思っていて、原作を見てもそんな感じも、ちょっとあったんですが、大画面でリアルなかたちで見ると、やっぱりちょっと。のけ反ったそのまま倒れないというのは、ある種、健全な反応というか、仕事としては慣れないという、その初々しさを実際のところを、僕らに見せたという、生きることの意味、決してこんなもの、機械的にできないよという、それはあたりまえのことを見せてくれたような感じもするんですよね。

上田 昔のように刀で首を切ったり、槍で突いたりということではなくて、ただボタンを押すだけで機械的に執行でき、受刑者に触れないでよいという装置が工夫されてきたわけですね。それでは今後、どうなっていくか。それでも最後のところには手を下す人がいるだろうと思う。そういう人がどこまで仕事だと淡々と割り切ることができて、もう少し積極的に、公共の福祉だったり、自分たちの周囲の人たちのためにやっているんだという意識になれるかということが、ある意味では最後に問われるかもしれませんね。

望月 そういう意味では得難い体験をさせてくれる映画だし、という思いもあって。公平性とか論理上の納得は一定にあるんだけど、最後は人が人に行う行為であるということを忘れささせないためには、ああいう形かあるんだなということは、DVDで見た時にはそんなに感じなかったのが、ここに来て、大画面で身をおいて考えてみると、ナマな上で人の行為は成り立っているものなので、そういうことから、ずいぶん初歩的な、プリミティブな発想かもしれないけど、人が人を殺して、犯罪現場はもっと大変なことが起こっているわけですが、そういうことから離れたところで議論してはいけないので、それを映画という媒体がつくってくれたという感じもしましたね。 あと、ひとこと言いたいのは、私の立場から、最近面白い話を聞いたのは立命館大学で図書館から無断で本をとっていく学生がいた。そのペナルティとして何をしたか。図書館で他の人がアンダーラインを引いたものを消しゴムで消す係をさせる。ペナルティとして。だんだんやっていくうちに持っていった奴が夢中になってくる。すごくきれいにする。熱中して仕事をするようになった。ある種、生き甲斐を持ってペナルティをこなしちゃったという、その話はね、本人にとってやり甲斐のある仕事をさせちゃった、ペナルティにはなってないんだけど。しかし話を聞いて悪い気はしないなという思いがあったんです。この発想はどういう原理なんだろうと。死刑からずいぶん離れた話ですけど、図書の本を無断で出してペナルティで書き込みを消すという話なんだけど。 被害者性、公平性という大昔からペナルティ、目には目をというのが体の中からしみついているけど、実はちょっと違うペナルティというか、何かに対する責任のとり方のあり方は、もう少し工夫があるんじゃないかという気もするんですね。

上田 今のお話は面白いですね。日本の場合、非行少年に課せられる処分は3種類しかありません。少年院に送るか保護観察にするか、あるいは保護施設に入れるか、3つしかない。しかし、よく言われるように少年というのはいろんな可塑性に富んでいる、フレキシビリティがあると考えられるので、教育の方法は他にも一杯あると思うんです。保護観察で保護司の人か少年に対していろんなことをさせるということは現在でもありえますが、それを制度として取り組んでいった方がいいんじゃないか。強く印象に残っているのは、アメリカの「ティーンズ・コート」についての紹介です。これは非行少年に対する裁判制度なのですが、10代の少年自身に裁判をやらせるのです。とくに、非行少年自身に他の少年の非行事件の審判について陪審員をやらせるのです。その過程で他人の非行を見て、考えて、どう処分したらいいかを考える陪審員をやらされることによって、自分のことを振り返ってみる。それが、効果がある。決して、模擬演技としてやっているのではなく正式の裁判なんです。このような思い切った方法は日本ではなかなか実現されないでしょうが、非行少年に対する処分の多様な改善は必要であり、今後、工夫する余地があると思っています。
 もう一つお話しした方がよいだろうと思いますのは、一般論として刑務所そのものをやめたらいいのではないかとうい主張があるということです。犯罪学にはそのような理論潮流の一派がありまして、ノルウェーとかオランダといった国々ではわりと有力なんですが、アボリショニズムといいます。刑罰制度があるから犯罪が起こるのだと、彼らは主張するわけです。刑罰を課して人を刑務所に閉じ込めて、十分教育もせずに社会に返していくという悪循環をやっているために、犯罪は減っていかない。犯罪によって生じた問題をきちっと解決するためには、刑罰ではなく損害賠償が正しい。損害賠償を中心にした問題解決の筋道を立てて、そのことによって刑務所制度を全部やめることかできる、と彼らは主張するわけですね。非常に興味ある主張なんですけど、私などは、殺人だったり強姦だったりといった、人身に対する犯罪について、そういう形の損害賠償とか、加害者、被害者の話し合いで、どこまで解決できるか、にわかには信じられない。少し見せてもらおうというのが率直なところです。しかしアボリショニズムは彼の地では割と有力です。これと似たもう一つのものは「修復的司法」と言われていますが、オーストラリアのアボリジニが昔やっていた方法を採り入れて、加害者、被害者の話し合いによって問題を解決しようとするものです。決着がつくまで何日も話し合おう。話し合うこと自体が、問題が起こった地域の問題状況の解決につながっていくという主張。これもアメリカに渡り、日本でも若干影響を与えつつあるということですね。
 そういった展望は一方においてはあるんですね。ただ他方では、重大な人身犯罪に対して、人が恨むとか、苦痛を覚えている状態に対して、どこまで有効であるかの判断は難しいですね。

望月 経済犯だったら歯には歯をということでわかりますけど。法律というと、実はコンピュータでやればいいじゃないか信じてた時期もあったんですが、お話を聞いてみると、人の行為として思いとか理念があって、法律というのはなかなか面白いものかなと。神谷さんがこういう特集をつくってくださったんで、初めて真面目に考えたんですけど、私の商売道具である「罰なき社会」とか、それが初めて法律の先生の前でお話することができたので、これを機会に、今後、立命館でも法律と心理学とか、法律と対人援助は教育や研究分野でも進展していくと思いますので、そんなことの発端になればということで、ありがとうございました。

上田 ありがとうございました。
司会 裁判員制度のことをひとこと触れていただいて、ご質問を受けるということで。先生は裁判員制度についてはどのようにお考えですか。

上田 裁判員制度に関して現在、すでにそれに該当する事件が選びだされている状況ですし、いよいよ実施という段階になっていますが、特に今年に入ってからのマスメディアの論調は気に入らないんですね。裁判員になったらどうしよう。負担ばかり多くて困る。自分たちに死刑判決を書けというのか。しかしそういう問題ではないのでは、ちょっと違うのではないかと思っています。犯罪、刑罰というものは市民社会、我々が生活している社会の問題なんですね。それを専門の人と称する裁判官、検察官、弁護士だけに預けるというのはいかがなものかと。自分の問題として取り組むことが大事なのではないか。その際に、素人に何がわかるかというのがおかしい発想であって、素人の日常生活に則した判断こそが究極において正しいのだと考えます。それを法律的な枠組みにあてはめて修正したり加工することは必要かもしれませんが、一般の市民の感覚、思いを入れていくのに、願ってもない機会が与えられたわけです。これがやっと実現できるという点で、私は裁判員制度の採用を積極的に考えていますし、定着していってほしいと思っています。

司会 ありがとうございました。会場のお客さまからお一人かお二人ご質問を。

質問 刑罰の存在が今起こっている犯罪を抑制しているという話が出たと思いますが、刑罰の存在が果たして、罪を減らすために使われているかではないと思っていて、罪を減らすために刑罰があるんだったら、刑罰をなくしてしまえば、犯罪をおかす人はなくなってしまうわけで、罪を減らすというのが、刑罰がある役割ではないというのが、ある種の前提だと思いますが、社会秩序を保つ、王権からある、ある種の考えで、社会秩序を保とうという考えがあって、そのために刑罰が存在して、死刑とかも社会性を保つための、ある種の秩序の一部として形成される。そういう考えでいくと映画を見た時、社会的な死刑と個人レベルで見た時の死刑と全く別ものになると思うんです。その時に個人レベルで死刑を見た時、社会的秩序としての死刑と個人としての死刑というのを改めて考えさせられたんです。日本にとって死刑が必要かどうかというのは難しい話だと思いますが、死刑にとって代わる新しい秩序があればいいと思いますが、日本の死刑についてあるべきか、いらないのか、いらないなら別のものを考えておられるのかについて質問したいと思います。

質問 20年前、晩婚旅行でヨーロッパにいった時にはスランス、イギリスに死刑制度がありまして、支持者が多いと聞いていて、フランスでもそうなのかと思ってがっかりしたんですが、EUがそれをなくしているということで、いい方向に向かっているんだなと一つ思いました。映画を見てきた中で、考えると、楢山節考だったか、皆が貧しい中で、じゃがいもを、ある家の息子が盗んだ。それを村全体が集団で襲って、その家の生まれた赤ちゃんまで根絶やしにするというシーンがありました。あれって、すごい残虐なんだけれども、比較できないような貧しさの中て考えられたベストの罰し方だったんだなと思ったんです。緒方拳さんが出ていた映画です。そのことを思いました。 アメリカでは私か見た映画では、デッド・マン・ウォーキングとか、グリーンマイルとか、カトリーヌ・ドヌーブが出ていたフランスの映画なのか、ミュージカル仕立てで若い弱視のお母さんが息子に視力を与えたいがために嵌められて死刑になっちゃう映画がありました。すべて公開で刑務官だけが立ち会っていますが。被害を受けた家族とか、関係者がたくさんみている中で死刑執行がされるというのは、どういう過程で公開制をとっているのだろうと、ずっと疑問に思っているんですが。

上田 実際上、死刑がある、刑罰制度があるということによって犯罪は抑制されていない、というのは本当だろうと思いますね。今よりも刑罰が厳しかった、かつての時代の方が残虐な犯罪が多かっただろうと思います。そういうことを前提にして将来的に犯罪がなくなっていくために刑罰がどうあるべきか・・・
 これは刑罰とか刑法制度の問題ではないと思います。社会が貧しい、人々の関係が険悪な状態になりやすいこと自体に問題があるわけで、社会がよくなって、お互いが角突き合わせて喧嘩することが少なくなり、やがてなくなってくのであれば、何かの諍いであっても近所の人が割って入って済むような問題しか起こらないようになれば、刑罰制度もその前提としての刑法もいらないだろうと思うんです。しかし同時に、それに至らない段階で、刑罰制度、刑法的な制度全体を、それが犯罪対策ではなく社会秩序維持の手段だからやめてしまえ、ということにはならないのではないかと思っています。
 おっしゃる議論はよくわかるものです。国が犯罪だと認めて処罰の対象としているのは実はたいした問題ではなくて、本当にたいした問題というのは処罰を免れているわけです。日本で1年間に窃盗、詐欺横領という財産犯罪で多分、5000億円くらいが被害総額だと思いますが、もっと大きな金額を女性に対する差別・賃金差別によって女性から奪っているではないか。そういう企業の方がよほど犯罪者だと。中国とか東南アジアの諸国に低賃金の労働を押しつけて劣悪な環境のもとで仕事をさせて、時には健康やを損ねさせて、その商品を日本に持ち込んでより高く売っている。これらは犯罪ではないのかということを考えていくと、それらの方がよほど大きな犯罪だということは、一面において真理です。その通りだと、けしからんと思います。そのことが、しかし単純に現在の刑罰制度、刑法的な手段を全部放棄してしまえということにはつながらないだろう、と思っているということですね。
 具体的に死刑に関して代替的な手段はあるかということであれば、それは多分、絶対的な終身刑しかないでしょうね。日本の場合には、しかし現行の制度上それはないし、あまり長期間、閉じ込めておくこと自体が人権侵害だという議論もありますので、それも難しいだろうと思います。
 たかがサツマイモを盗んだだけで一家根絶やしにするような厳しい制裁を持つ社会はもちろん考えられる。そういう社会では公然と襲って一家、根絶やしにする。ヨーロッパでもかつては公開処刑かあったではないか。アメリカにもありましたし、日本にもありました。公開の処刑はかなり近年まで広く用いられておりました。現在でも中国の死刑に関しては公開裁判で死刑執行大会を開いたりしていますから、そういう制度がいまだに生きています。なぜそんなことをするかといえば、人々に強い印象を与えて犯罪から遠ざけようという発想からですね。これは刑罰を重くしていったら犯罪かなくなるという思考と同じ単純なものであって、絶対にそういうことにはならないんですが。
 刑罰が生ぬるいから犯罪が起こるのだという発想はいつでも、俗受けするわけです。市民が賢くならないと、単純な為政者がそれに寄っかかっていきやすい思考だと思います。おろかな例は世界中にたくさんありますが、日本ではそうならないように期待したいと思います。

司会 それでは今日の企画は、これでは終わらせていただきます。上田先生のお話は、市民社会、我々の社会の問題であると一人ひとりがどうとらえられるか。市民社会の成熟度、刑罰ということと対峙して問われている日本社会そのものが問われている。裁判員制度はそれをどういうふうに変えていけるのかという、きっかけにもなりうる制度ではないかと。制度が実施される以上、積極的に受け止めるべきではないか、というお話だったかなと思います。 次は7月に「カナリア」という映画で、オウム真理教と思われる宗教団体の信者の子どもたちを対象にした映画ですので、また違った視点で、「裁く」ということ、被害ということ、加害ということを考えていただける機会になるかと思います。ぜひご来場ください。今日はどうもありがとうございました。



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