神谷(京都シネマ代表・産業社会学部教授)
 団先生は実は漫画家のお顔もお持ちで、ご著書もたくさんありますが、日本漫画家協会に所属されています。今日の映画について言うと、レジュメにもありますように2つの柱でお話してくださると思います。それ以外にも家族についていろんな角度からのお話をしていただけるのではないかと楽しみにしています。それではよろしくお願いいたします。

 面白く映画を見られた後で、こんなところでしゃべっているのも、どうでもええやないかという気もするんですが。私もマンガを書いたりする人間ですから、ものをつくっている人間がどんなものをつくって、それに比べて今日、初めてごらんになった方も、2度目、3度目の方もあると思うんですが、見た人間はつくった人間に比べたら、そんなたくさんのことを受け止めるわけにいかないですね。いわば初めて見るわけですから見えることしか見えないし、つくっている側の人間は、特に映画の場合はそうだと思いますが、私が描いているマンガなんか、ペッペッと人物を描いて、そこでしゃべらせて、あと背景なんか適当なんですよ。背景なんか誰も見てないと思うから。でも背景をガッチリ描いてないと気が済まないのは子どもがそうなんですね。子どもに与えるマンガをちゃんと描いていると「間取りがおかしい」とか「前のコマではドアがあそこにあるのに、こっちのコマではドアの把手が反対側についている」とか言うんですよ。描いている人間もつくっている人間も緻密につくっているようで、もう一方で、ようわからんなということをやっていて。私、適当な人間なんですけど、考えてみたら先程レジュメの話をされましたけど、それを私、持ってないんですね。今日、ここに来てももらってなくて人のを見せてもらって、そんなことを書いたなと。
 今から話そうと思うのは、春野一は、ぼやっとした高校生ですわな。のんびりした高校生が出てきて、いろんなことをごちゃごちゃしますけど。ジェノグラムというのは家族、春野さんという家の家族のことを、家族の紹介を順番にしているわけではないから、あの家族について春野家はこうなっておりましてと、誰も言わないから、ストーリーもないですわな。あの映画ね。ストーリーがないというのは、ある種、すばらしいなと思うのは、今日のを見ていただいてわかったのは、あれがたとえば惑星の隕石のかけらが地球にあと24時間でぶつかってくる。そのためにアメリカのNASAではこういうのをチームを組んで主人公はブルース・ウィリスだみたいな話やと、そこへ向けてだんどりを進めていきますよね。どんな準備をして、どうなって、ギリギリ時間になって、向こうからどんどん近づいてきてレーダーにこう写っているというのは全部だんどりで、最後にブルース・ウィリスは死なないし、地球も爆発しないというところに話を持っていくための道中をだんどりで見せていくんですけど。今日の映画って、別に最後にあのおじいこんが死ぬのがクライマックスやということは、そんなことはないでしょう。あのおじいさん、死ななくもかまへんし、死んでからあの部屋にパラパラマンガが発見されんこともない。今日の話って、はじめから終わりまで別にまあ、なくてもよいという流れですよね。
 そうするとね、終わりのクライマックスとか、最後のここへ持っていくための手続きとしてシーンがつくられている感じが、私はしないんですね。その場面、その場面がつくりたいものをずっとつくっていかはって、結果的に、この映画を最初、見た時、「なんや、これ」と思ったんですよ。「なんや、これ」と思ったけど「山よ、やーまよ」っていう歌、ずっと耳について風呂に入って「山よ、やーまよ」っ言うと「何言うてるのん」と女房に言われたんですよ。それが考えてみたら、あの映画とそっくりなんですね。そら、皆さんも家に帰って、何となしに「やーまよ」と。「それ、何なん。コマーシャルでやってるのん?」ときっと家族に言われたりすると思うんですけど、耳につく、耳について、つい口から出てます。「それ何?」と言われても「うん、やまよ。山はいーきーている」。なんの意味もない歌詞の集まりですな。「山よ、山よ」と言ってるだけやから。そのわりに最後のタイトルで「山よ」のバックコーラスはジュークエイセスと出たんですよ。なんか要するに、ここ重要とか、このためにこういう仕掛けをしていますというよりも、その場面、その場面、ずっとこういう感じでどうですというふうにつくっていかはったもんやから。
 この映画は実は僕、3回目ですけど、映画館でやっていたのは知ってたんですけど、浅野忠信が出ている映画が好きじゃなくてね。必ず曲者というか浅野忠信だという感じで、出ていたり、あのおじいさんがやっている我修院なんとか、もうね、出てきただけでウザッという感じで見ないんですよ。私は見ない映画やから、知ってたけど見なかったんです。ところが先月やった『蛇イチゴ』の方が自分としては気に入っていて「あれやったら話してもええな」と思っていたのに、企画者の中村正さんは「団さん、この回を」。たまたま私、空いていたんですけどね。先月、空いてなかったので「ここでええねんけど、『茶の味』?  見いへんで」と見ない映画を言うのも無責任な話なので「じゃ、見ときます」。DVDを借りてきて見たんですね。途中で、あまり辛気臭いからいっぺん風呂に入ったんですよ。風呂から出てきて後半と思うたら後半もクソもない。前半も後半も入れ替えたって別にどうちゅうことない話で、どうでもええ話です。あまりうれしくて自転車で帰って明日のことを考えたら戻しておこうと、戻ったってほんなもん、どうでもええことでしょう、ほんまに。
 それくらいどうでもええこともないやろということを丁寧に描いてあるわけ。時々、ピピと雲雀が啼いたり、日本の春だなあ、ああ、日本はええ国やなとか、のどかな田園風景なんか、ウソで、のどかな田園で、あないに呪いの森があったり、シャレコウベにウンコを乗せたり、その後も生き埋めにされた人をおじょうちゃんが見つけたり、あれも大事件の農村ですから、のどかなことは何もない。あれはのどかな話なんかじゃないですよ。むしろ妙な人たちの妙な、そやけど、へんな話というと、意外に、皆さんも気がついてはると思うけど、個人、個人って、ああいうことをずっとやってますね。ああいうことをやって暮らしていて人にバレてへんから別にそれでも普通と思うるけど、ずっと誰が一人にカメラを隠し撮りで置いておいて、へんなこと、してますよ。理屈の通らんことをやってますって。ここへ来ている人だって映画を見るのやったら映画館で映画やっている時に行ったらいいねん。京都シネマに行ったらええのに何を大学の建物に土曜日の昼からどういう経緯でここへ来たんという、皆、チラシを見たとか義理で来たとかあるけど、そういう選択行動を人はなぜするのかという、そういうことの不思議さというのは、あの映画の中にも。あの家族がね、実は今の段階で、私は、はっきりわからへんのですよ。私は何か答えを知っていてしゃべってるわけじゃないですから、映画みたいに答えなんかないわけですら、何でもかまへんと勝手にしゃべっているので、私と違うご意見を持たれた方があったら構わないですよ。最後に質疑応答でご意見ございますかと聞きませんから、どうぞ持って帰ってください。私に言われたって私に答える責任も何もない。
 ただね、ああいう家族を見ていますと、お父さんがいますよね。三浦友和さんがやっている。カップルですよね。お母さんですよね。手塚理美さんがやっている。ここに二人子どもがいるわけで。上が男の子で高1です。下の女の子が小学生です。これが一君、幸子ちゃん。お父さんとお母さんがいる。ここまでは異論はないと思うんです。その後ですよ。あのコーン言う、突然、歌を歌う、「なんであなたは、三角定規なの?」というあのおじいさん。あのおじいさんは誰のお父さんなんやと。あの農村の野良犬のような人をあそこで拾うてはるわけやないから、誰かのお父さんやから、あれは親父と言うてるから、おそらくこの人のお父さんなんですよ、多分ね。それは後からパラパラマンガの中に三浦友和さんの「これ、俺か?」という「子どもの頃や」と。ランニングしているところを、この人が描いてますから、おそらくそんな時代のことを知ってはるのは「この人の子やから」となるわけで、その意味で、この人があのおじいちゃん、マンガ家、元アニメーター。この奥さんは尊敬していると。この親父がね、何の仕事をしていますか。催眠術師でしょ。こんな職業の人、おかしいやろ。こんな人って、なんか怪しげなことをしそうやと思いますがな、言うたら。催眠術の仕事をしている人を侮辱するつもりはないんですよ。催眠術師でテレビに出ていて、わけのわからんことをして、あれはウソだったと言われてはったり。その人の奥さんが元アニメーターで今また現職復帰をね、するということでやっている。こういうことですね。
 世の中にいろんな偶然がいくらもあってもおかしくないけど、漫画家のアニメーターの親父さん、この人の奥さんが写真しか出てきませんけど、樹木希林さんなんですよね。樹木希林さん、最近、ごらんになったことあるでしょう。アカデミー賞の受賞式で義理の息子が、赤絨毯を歩いてバシャと言われて、邪魔やと言われて、ワッと監督と出ていったモックンというのが樹木希林さんの義理の息子なわけですよ。この人のあの実世界では樹木希林さんの義理の息子はアカデミー賞をとっているけれども、この場面では実の息子は催眠術師なわけやな。夫があの人やからな。この人の、さあ、ここですやん。この人に男兄弟がある二人あるんやと思ったが、そうじゃなくて、わけもわからへん、轟木一騎とか、別のところで漫画家の事務所をやっていてアシスタントも使って、アシスタントの人妻が、そのことを好きなんやけど、先生は先生やけど、私生活では他に浮気もしていて、彼氏がおるということで、そのことで電話してボコボコに殴られていますわな。ああいうことをやっている、弟のところに電話するというから、轟さんという、あの漫画家はおそらく兄弟なんですよね。ここでは。
 ところが問題は、どうも私が目障りな赤野忠信ですよ。あの人は一体、誰の兄弟なのか。どうもあの人は手塚さんの弟なんやと。しかもですよ、あの家は春野さんという家です。春野さんというのは、もしも春野さんの家に手塚さんがお嫁に来てはるのやったら、この人の元の家に別の名前があって嫁にきて春野さんになって、皆さんは春野さん、となりそうなんやけれども、どうもそこがようわからへんのは、浅野忠信君は昔、自分が恋愛関係にあったのか、割合近しい人で別れてしまったけど、その人が結婚したことについて一言お祝いを言うておきたかったという人のところへ橋を渡って、朝、フラフラと行って急いでシャッター上げながらいいますよね。あの時に彼のことを「春野君」と昔、『北の国から』でホタルをやっていた中嶋朋子さんが「春野君」と言うから、あの人、春野さんなんですよね。そしたらこの人、春野さんやったら、2番目の弟なんかと思うんですけど、ところが「山よ」のCDのね、ミキシングをやる時の経緯について「つまらんことを頼むなよ」という、このじいさんは少なくともマンガ家をやっている、怪しげな、この親子似てるな、素行が怪しいことも含めて。この人とは親子でデュエットしてDVDまでつくるかという、それをやってはるのやから、これは似てはるんやけど、この人に関してはね、一緒にいはるのやけど、割合に弁えてはるという感じがあるでしょ。そやけど、この人はこの人が一緒に住んではる家に、もう今日で最後だからと、久しぶりに里帰りしてはる、しばらくそこにいはった。それとも、あのタイミングまでそこにいはって、その後、出ていはかったのかしらんけど、最後の晩だから、この人に「あれやってよ」と催眠術をかけてもらう。その時も全員が催眠にかかったりせえへんよな。あの時に催眠にかかっていたのは、この人とこの人と、川原でダンス踊っていて、つれてきた創作舞踏の兄さんと、あの3人がバーッとかかっとるけど、あとの3人は途中からテレビ見とる。最初はあんじょう、受けるかと思うと被暗示性の問題はいろいろあるんですね。催眠術は全員がかかるわけではない。被暗示性の高い人と、そうでもない人が必ずあるんですけども。
 そうなるともう一つ結末出ぇへんけど、なんでかと言うと、仮に浅野忠信と手塚理美はきょうだいで、この人とこの人が二人きょうだいで、おじいちゃんがいて、その人らが春野という名前で、もともとこの人は地元の同級生に中嶋朋子さんがおるわけですから、この人の上の世代の話は全然出てこない。この人は写真も出てこない。この人は生きている。こことここはしてないで、しかし住んではる家は、この人のもともとの家なのかと思って、それで今住んでいる形態はどうか。おじいちゃんとお父さんと彼女とこう住んではって、この人が里帰りで帰ってきはる。しかも春野というのはこの人の姓で、家もこの人の家やとしたら、なんか、この人は養子なんか、マスオさんファミリーよりすごいわな。おじいまで連れて入ってきているとしたら。わからへんなと。これが私が見ていて思っただけで、皆さん、他の可能性について思われることがあったら、それもどんなふうにごらんになったって、ちっともかわへんのですけど。そんなことを思いながら見ていました。
 ずっと見ているといろいろなエピソードが出てくる中で、出てくること、出てくることの中にね、なんか「あ、そういうことか、ああいうことか」と思うこととか、それとメインストーリー、隕石が来るのを防止するために地球防衛隊をつくるというようなアメリカ映画が凋落して見なくなりましたから、お客さんも興行収入の5割を日本映画が占めるというのが去年くらいからの勢いですから、そういう意味では日本映画はずいぶん隆盛になっているんですよ。特に若い人たちが邦画を見る。洋画を見ない。私の子ども時代なんかは映画は字幕で見て、テレビでやっているテレビ映画は吹き替えしますけど、この頃、映画館でも日本語吹き替え版のものも並行上映するようになりましたね。私もある時代まで映画はもともとの声で聴かないとあかんやないかと思ってたんですけど、だんだんそんなことを言うのもインターナショナルに見れば少数の立場の意見なんですね。アメリカは全部吹き替えですし、他の国に行ってもその国の言葉で字幕がワッとでて原語で日本の映画だったら日本語でしゃべってはって、上映国の字幕で出る国は少ないですね。そういう意味で言うと吹き替えはもちろん俳優の生の声を聞きたいというマニアックな人はいいんですけど、それが昔の日本のメインの流れやったらとしたら、そういうふうに思わない人たちが増えてきたということと、字幕のついた映画の興行が5割を切ってしまう。昔は日本映画は誰も見ないので、映画をみるなら洋画やろ、ロードショーに行くのがデートになる。日本映画を見るのは貧乏臭いというのが我々の世代の感覚の通り相場だったんですが、それが大きく変わってきている。
 変わってきているのは単にファッションが変わってきているだけではなく映画で描いている中身が特にアメリカ映画が弱くなってきているなと思うのは、今日の『茶の味』を見ているとストーリーがどんなコケ威しがあるか、ストーリーがどんなすごいかという話ではなく、見た人によって覚えているところが、ものすごく違ったりするというところがあると思うんですね。皆さんの中でも印象に残っている人があると思いますけど、ロマンチというお好み焼き屋だか何だかわからん道路沿いのロマンチって中途半端な名前やな。そこに中学生か高校生の同級生が一人、わけのわからんセーラー服を着ているのがおりましたわな。あいつらのしゃべっていること、しょうがないような、電車の中にそのままおりますよね。そのままいる高校生の横に、あんなおばちゃんもいますよね。つまりああいうことって、隕石が落ちてくる映画なんかには、あんなシーンは省かれるわけです。どうでもええかね。隕石から守るためにどんどん仕掛けをしていく。その類の映画のつくり方が、アメリカコミックは日本でいっぺんも大きく流行ったことはないんですけど、そういうものを映画にしてお客が来ると思っていたのが、ほんとに多くの人の中から好みとしてチョイスされなくなってきている。そういうことはここしばらくの傾向ですが、この映画は2003年の映画ですよね。こういうものを素人がつくっているわけです、こういうものをつくっている。
 これは一体何をつくっているのかなということが私にとってはとても面白くて、実は、私はマンガを描いていますが、物語をつくる、何かをつくりあげる時、ある意味でメリハリがついてわかりやすいものをつくりたがるというところがあるんです。それはなぜかというと届ける相手にわかってもらわないとあかんということがある。わかってもらいたさが勝ちすぎるとね、わかりやすいものをつくりたくなる。わかりやすいものをつくっている、今度、つくっている人間がそれをつくっていることを、どこかで自分はそんなに精一杯になれないんですよ。わかりきったことをつくっているから「これくらいにしておかないと、わからへんで、客は」って思うことが出てくるわけです。これって、ずっとそういうやり方で演芸とかクリエイティブとか、創作物を提供してきたところがあるんですけどね、アメリカ映画も完全にそうですけど、誰が見ても英語がわからへん人にもすぐわかるようにどんな話と言われたら、30秒くらいで話せるようにというものを映画にしてつくってきたんですけど、ところが、そうじゃないもので、そうじゃないものは小難しいものかと言うと、そうではなくて、こんなわかりやすさではないけれど、これと対極の小難しい自意識丸出しの自主上映みたいな映画という紋切り型の分類ではなくて、もっとディテールが面白くて、しかもそこに「ああ」というような、見ている人の中に受け止め方ができるようなものをつくるということを、今、言うていることにも丁寧な方法があるわけですよ。
 それはつくっている側の人間がずっと自分がものをつくるということに習熟しながらだんだん上手になっていく。「アイディアはええしな、気持ちはわかるんやけど、そやけど十分描けてないのやな」ということって、たくさんあるんですね。そういうものっていうのは「気持ちはわかるけど、面白くないよな」とうい感じがする。そういうふうに考えた時、『茶の味』というのは3度目見たんですけど2度目が一番面白かったですね。3度目は話をするから確認をしているというところがあって、ああ、笑いながら、次始まったら、そっちに切り換えてないとあかんという感じで、二度目は自分の家で丸々楽しんでいたから二度目の方が楽しめたんです。なんで二度目の方が楽しめたかとういと、初めて見た時は「これ、どういう話なんやろな」と思って、どういう話なのかを探していた。どういう話でもないねん、これ。どんな映画なんやろ、『茶の味』、なんで茶の味よ、縁側で皆でお茶飲んでるから、くらいしか言いようもないような、どんな説明をしてもかまへんし、どんな説明をしても間違っているわけではないけども、そういう種類の「どんな映画やった?」と言われたら「こんな映画でした、こんな映画やからぜひ見に行きなさい」やないけど、見てたらなんやしらんけどな、人の好みはあるやろけど、いろんなところで面白かったら、くすくす面白かったり、「ああ、あるある」という面白さだけではなくて「ああ、あるある」という面白さを、お笑いなんかの人が、よくテレビでやることがありますけど「ああ、あるある」よりも「そんなことって滅多にないけどな」と思いながら「でもそういうことってなあ」という、そういうところの面白さ、自分が一度も経験ないけど、突飛なことではなくて「あ、そういうことか」という、ちょっと、とても面白いところの面白さをつくっている。そやから「へんなや」と言うてしまうと、映画のことを見切れてない。「ほのぼのした映画」とか「ゆっくりした映画」という言い方をしていても「何か違うかな」という感じが私にはしていて、とても私は今日、3度目見て楽しめた。
 楽しみながらこの件に関して言えば、どうも家族関係、ようわからへん。基本的なデータで言えば、この人、轟木さん、この人も轟木さんで、轟木さんというマンガの筆名を親子で同じ名乗ってはることなかろうし、第一、たまたまアニメーターをやっていて、この人尊敬しているという人が、ここに嫁に来ているというのも、どういう経緯で一緒になったんいうのも、すごく気になってね、そんな偶然はないやろと。私の息子が結婚して、結婚した相手に会うたら「お父さん、私、漫画家なんです」「お、君も漫画家か、僕も漫画家や」というくらい、そんなウソ臭い話はないでしょう。代議士の息子が代議士になっているアホなことは、ようありますわな。あれは親がそうさせとるのやけど、自分の息子の嫁さんが、お父さんと同じ職業や、しかも変わった職業やといことは、どうもようわからんから、ようわからんことも含めてようわからんけど、面白い映画やったなと思いましたという、私の話も、ようわからんということでね、解説でもなんでもない、終わりです。どうも。

神谷 団先生、ありがとうございました。ようわからんけど、わかったような気持ちになっていただけたかなと思いますけれども、映画はお一人お一人皆さんがご自分の中でいろんなふうにお考えいただいて楽しんでいただいたらいいのかと思います。
この講座、中村先生と望月先生と村本先生もいらっしゃっていますので、講師をさせていただいた先生が最終日ということで、オールスターキャストで皆さんにご挨拶をさせていただきます。今後の講座のことも含めまして中村先生からもお話があるかと思いますので。

中村(産業社会学部・応用人間科学研究科教授)
 11、12,1、2、3月と5回来ていただいた方います? 「家族の現在」ということで5回させていただきました。『誰も知らない』という映画から始まりまして『チーズとうじ虫』『ディア・ピョンヤン』で場面を大きく変えて見ました。前回が『蛇イチゴ』、今回が『茶の味』。これを選んだ理由はそれぞれありますが、もっとたくさん候補を上げていましたが、5回分だし、版元から上映しては困るという経緯もあって、5回、映画だけではなく、おしゃべりをつけようということで、こんなセットにしました。アカデミー賞で世界に印象を与えた『おくりびと』もそうですが、家族というのは日本社会ではとても大きな存在感があります。日本映画はずっと家族を描いてきたといっても過言ではないほど、家族という設定がどこかで入り込んでいます。これは当然、ハリウッドにはないテーマです。日本が誇れるテーマではないかと思います。見方によっていろんな切り取り方はできますけど、家族というフィルターを通してみると、それを描いてない映画でも見えてくる、私たちのリアリティに訴えるものがあるのかなと思います。
 とりわけ今は家族が大きく変化している時期なので、家族が大きく変化していて、言葉を与えてしまえば少子高齢社会の中でいろんなテーマを持って、もちろん困難もあったり、課題もあったり、希望もあったりする多面体ですよね。今日も多面体が描かれていたなと。宇宙から見て、もう一人の自分を見ている、それぞれ全く違う現実を生きている。それでも家族として、わけはわからんけどある。そういう存在感があるかなと。そのマルチな様相が見えてくればいいかなということで、5回。それは変化の時だから家族に関心を持たれていることに光を当てかかったことと、家族学というのをつくっていきたいなと思っているわけです。大学ですから言葉豊かに家族を語りますけど、語れば語るほど、何かがずれていったり、言葉だけではうまくとらえられないなということがあったりするので、人間科学研究所で家族のことを研究しているチームですが、言葉で語れば語るほど見えてこないものを、しかし大学という空間の中で何ができるかということで非言語、映像を通してぜひセットしたいということできたわけです。
 もちろん大学の言葉で学問的には家族学として語っていきたいのですが、映像でしか表現できない、映像だから表現できること、映画ってずるいなと思いながら瞬間的に見せてしまう、そういうことを交えながら言語で表現する世界と非言語で感じる世界をうまくセットしながら家族学をぜひつくっていきたいなと思っているわけです。
 それぞれ私が勝手に指名したんです。この映画はこの先生でお願いしますと勝手にお願いしましたので、そんなふうにしてつくってきたんですが、また違う意味づけがあるかもしれませんので。次は『チーズとうじ虫』について望月さんから。

望月(文学部・応用人間科学研究科教授)
 『チーズとうじ虫』担当の望月昭です。団さんみたいにタイトルが嫌で見なかったんですけど、非常に勉強になりました。監督と知り合いにもなれて。非言語で家族のことをクラスターとして大学のグループでやっていますが、私だけ違って混ぜてもらったんですが。一番楽しんだのは解説をさせてもらった私で、これは京都の究極の旦那遊びであろうと思っているんですね。映画技手にも来てもらってプロの人にも来てもらい、映画監督とも協同させてもらって夢に見たようなシーンでしたね。僕らは表現する時は言葉でやるわけですが、非言語的な画像で表現しないといけない。皆さんもおわかりと思いますが、映画って誰かに伝えようと思って見ると、非言語的なものがあって、誰に伝えようかという思いの文脈の中で解釈がいろいろ変わってくると思います。この映画はこうやってしゃべらせてもらう前提で今回、初めて見せてもらったんだけど、非常に一生懸命勉強しました。楽しませてもらいました。京都シネマさんにも、ありがとうございました。

中村 次は『ディア・ピョンヤン』について。

神谷 私はいつも映画館でやっていることを、ここでやらせてもらって。以前、立命館大学でもヤン・ヨンヒ監督を対談にお招きしたこともありましたので久しぶりにお会いして、ただ在日の方たちの家族像がどんどん時代とともにいろんな変化を余儀なくされているなということを、少し年数を経てみてまた改めて思って、さらにヤン・ヨンヒ監督ご自身の周辺もまた変化があったので、そのことをすごく感じまして、ドキュメンタリー映画の一つの時代の中で、どう見られていくかという部分のリアルな部分での変化を映画も違う視点を当てられたような気がしましたので、この機会に皆さんとご一緒に見ることができて、また監督ともお話ができて、こういう機会を与えてくださった研究所の皆さんに感謝したいなと思っています。お越しいただいた皆さんにも感謝したいなと思っています。ありがとうございます。

村本(産業社会学部・応用人間科学研究科教授)
 私たちは家族クラスターで団さん、中村先生とご一緒して、一つの映画をテーマに好き勝手に話をする機会を通して、その違いは考え方の問題であることもあるし、趣味の問題であることもあるし、3人一致して「これはすばらしい」という時と、誰かが大好きで、誰かが大嫌いという映画もあったりして、そんなことをワイワイガヤガヤ言っています。今日の『茶の味』は団さんはすごく嫌いだと言っておられて「すごく嫌いだから、最初に嫌いか、好きかをフロアに聞く」と。話を聞いていると「よかった」という感想に変わっているので、2回目から面白くなったのかなと。私も今日は初めて見て南山の変形が入っていたので最初は面白くない、へんな映画なのかなと思って見ていたんですが、最後は面白かったです。映画の好みって、考え方、趣味の問題は合理的、論理的な説明なしに、好きとか嫌い、それをすることが、その人が見えるということがあって、すごく楽しい企画でした。望月先生が映画好きというのは知らなかったので今回、それを初めて知って今後仲間が増えたかなと思います。神谷さんと一緒に仕事をする機会ができてうれしいです。今後も発展できたらなと思います。何よりこの映画の企画があることで、私たち同士も学生たちの間でも「次はあれだよね、どう思う?」という共通の話題を、その場で終わるのではなく、何か月か持ち越していくという形で議論できたのはよかったなと思います。今後、さらに発展させて、皆でワイワイやったり、フロアの皆さんとやりとりできる企画にしていったら面白いかなと。そこから人間学、家族学、人間をいろんな視点から見ていく企画ができたら楽しいなと思います。ありがとうございました。

中村 今回のラインアップは他にも上映できなかったものもありますが、一つの選択基準は「胸騒ぎする映画」です。一筋縄ではいかないものばかりを選びましたので、ぜひ皆さんたちなりに胸騒ぎを感じてもらったらいいなと思います。俳優ではないので出演者が登場しているわけではないんだけど、次もやりたいと思っています。新年度もシリーズで2回くらい「シネマで学ぶ人間と社会の現在」を。とてもいろんなことを考えさせられるので映画っていいなと思っています。2回くらいのシリーズで新年度もやります。また来てください。家族から続いて次に何にするか、楽しみにしてください。
 これをセットするのに大変な労力がかかっています。人間科学研究所のスタッフ、野村さんと荒堀さん。実にいろんなことをしてくれました。裏方でやっていただいています。ありがとうございました。会場の皆さん、ようこそお越しくださいまして、長くおつきあいいただきました。また5月から新シリーズが始まります。よろしくお願いいたします。



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