えっせい

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「白日の下に晒すということ」

筆者: 若林 宏輔   執筆: 2010年 月

 我が国で近年さまざまな冤罪事件が明らかになってきている。その大部分が警察捜査の取調べ段階で被告人が行った「虚偽自白(この場合、本人の意思に反して強制的に犯罪行為を認めさせられる場合を指す)」が決め手となって有罪判決が下っていたケースである。この問題を解決する手法として「取調室の可視化」を求める声がこれまでにも増して強くなってきている。
 ここでの可視化とは、つまり取調室で行われる一切を録音・録画しておくことで、後に自白が任意に(個人の意思で)行われたかどうかを確認できる仕組み、またはその制度構築を指す。裁判で自白の任意性が問題となった場合、この映像が証拠として法廷に提出され、裁判員達が被告人は本心で自白したのかどうかを吟味することができるようになる。

 こうして聞くと「取調室の可視化」は手放しに社会にとって良いことのように思えるのだが、実は単純にそうはいかない。

 2010年9月15日に、R-GIRO「『法と心理学』研究拠点の創成」の企画として『法廷における映像技術の心理学的影響 Psychological Impact of Visual Technology in the Trial』と題したシンポジウムが立命館大学衣笠キャンパスで行われた。立命館大学文学部・サトウタツヤ教授、成城大学法学部・指宿信教授を中心に企画された本企画には、豪国よりJane Goodman-Delahuntly教授、韓国からKwangi Park教授、米国よりNeal Feigenson教授、Jaihyun Park教授が来日され、いずれも法廷における映像プレゼンテーションに関する心理学研究の報告が行われた。内容の詳細については触れないが、多くが検察・弁護側のプレゼンテーションに使用される映像が、陪審員(我が国では裁判員)の判断に“偏った”影響を与えることを示唆するものであった。

法廷における映像技術の心理学的影響シンポジウムの様子

裁判員制度では、裁判員への負担を考慮して裁判の迅速化・簡素化が求められている。「わかりやすさ」が重視された裁判では、裁判員(と裁判官)に提示される情報は良くも悪くも単純でインパクト重視なものになりがちとなる。当然ながら、インパクトを求めることと正確な情報を伝えることとは、相反するわけではないが、イーコルではない。そのため、過剰なインパクトを与えることは裁判を公正から遠ざけてしまう可能性を孕んでいる。先述した「取調室の可視化」も効率化のために映像が都合よく編集され、自白シーンだけを証拠提出するだけでは何も意味がない。

Lassiter教授の講演 また、録画するということが思わぬ効果を生むことも実は明らかになっている。同年10月16日・17日には同R-GIRO企画共催で「第11回法と心理学会大会」が朱雀キャンパスで行われた。同大会では、米国オハイオ大学Daniel  Lassiter教授の招待公演が行われ、「カメラ・パースペクティブ効果Camera Perspective Bias」に関する一連の研究成果が報告された。
 この効果について単純に説明すると、取調べ録画映像が、被疑者のアップの映像だけを用いる場合と、捜査官と被疑者の両者が映っている場合とでは、自白の任意性に対する陪審員の評価が相対的に異なる、というものである。つまり、被疑者一人だけの映像を用いると彼/彼女がより自発的に喋っているように思えてしまうというわけだ。しかも、この効果は判断者の意識とは別に知覚的(無意識的)な効果として存在しており、努力しても抜けられないことがLassiter教授の研究から明らかになっている。この研究結果を受けてアメリカでは取調室を録音だけする「可視化」の動きがあるようだ。もちろん、我が国においては「取調室の可視化」の仕組みを構築することが最優先である。しかし、目に見えることだけが可視化ではないことがこの研究から明らかになっている。白日の下に晒すということは、公に正確に公正に情報が公開されなければならない。この一歩先を見据えたデザインが制度設計には大切なことのように思える。

 さて、ここまで書いてみて、この文章の大部分がなんらエッセイらしからぬことに気付いた(いや、もっと前から気付いてはいたが)。でも、エッセイってなんだろう?と考えてみたが良く分からない。家にあったエッセイ本を手にとって読んでみて気付いたのは、もっと筆者に肉薄したことを書くと良さそうだということだ。もちろん筆者の体脂肪率が低いと云えというのではない(あぁ、くだらない、しかしこの辺りの文章が一番僕に肉薄している)。まさに自白(じはく)の下に晒せというわけか。そう言えば「白日の下に晒す」って中々に格好良い響きだと思うし、だから使ってみたのだけれど、僕は子どもの頃はこれを「白目(しろめ)の下に晒す」だと思って読んでいた。意味としては、目の前に現実を突きつけられた人がそれを見るのを避ける様、またはそういう状態の人に事実を突き付けること、みたいな。
 皆さんにとって裁判員制度がそうなっていないことを期待。

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