えっせい

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「道くさも出来ない世の中なんて・・・・・」

筆者: 水月 昭道   執筆: 2006年 月

人間科学研究所 ポストドクトラルフェロー[br]水月昭道  私が「子どもの道くさ」を対象として研究をはじめたのは、近代技術文明の下で合理性や普遍性などといった価値観が幅をきかせ続けた20世紀のラストイヤーであった。その年、私は某学会で道草の研究発表を行った。

発表を終え、質問を待っていると、会場から1つの手があがった。
「あなたは、子どもたちに道くさをさせようとしているのですか?」
非難めいた色彩を帯びた声色で、その質問者は私を見据えていた。

質問者にとっては、道草なぞは不合理の極みであり、それをわざわざ取り上げることにどんな意味があるのかわからないということであった。考えてみると、合理的・効率的・経済的などの判断基準に普遍性が持たされたような暗黙的価値観の浸透する社会の下で、大人達は子ども達に向かって、さも当然のように「道くさなんかするんじゃないよ」とずっと言い続けてきたではないか。なのに、その道草を私は取り上げ、無謀にも良識ある大人達で満たされている学会の場で発表したのだった。発表に嫌悪感を示され、否定的意見が出されたとしても無理からぬことだった。

さて、21世紀になり数年を経た2006年の現在、絶対君主のように君臨していた前世紀の価値観を前にして、それまでおよびもつかなかった価値観が出現してきている。スローフードやスローライフといった概念である。早さこそが全てという価値観に支配されていたそれまでの社会のなかに、全く逆向きのベクトルであるスローという概念が注目されはじめたのである。それはまるで、前世紀の価値観に対する内省を行うかのように、社会の中に自然に産まれてきたようかのようにすら見える。

このスローなる、新しく出現した評価軸が簡単に折れてしまわないように、それを支えていこうとするかのような動きもチラホラ見られるようになっている。岐阜県多治見市は、「みちくさ」をテーマにスローライフ運動を意欲的にすすめているまちであり、「ゆっくり・ゆったり」といったことを大事に捉えているまちの先進地として名をはせている。

こうした動きがうまれ始めたのをみて、あの日あの時ボロボロにけなされた「道くさ」発表も、ようやく日の目を見る時が近づいてきたかと、私はほくそ笑んでいた。ところが、冷や水を浴びせるように、子どもが巻き込まれる痛ましい事件の昨今の頻発である。社会は、子どもの安全確保を最優先に唱えだし、道草などとのんびりしたことは、再びあっという間に言えない世の中に逆戻りしてしまった。

現在、小学校では子ども達に防犯ブザーや催涙スプレーといったものを携帯させているところが多い。校舎の入り口に監視カメラが取り付けられ、その様子が職員室にあるモニターでチェックされているところもある。そのものものしい光景を目の当たりにすると、子ども達に道草をさせることなぞもってのほかという空気以外のものが、そこに存在しうる可能性なぞ全くゼロであることは瞭然としている。

私は怒られることを覚悟しながらも、思いきって、現場の先生方に尋ねてみた。
「このような管理的な風潮をどうお考えになりますか」
先生方からは、「子ども達のことを考えるとこうした窮屈な締め付けは可哀想だ」などという、私がそれまで予想していたものと全く逆の意見が多く寄せられたため、大層驚いた。

ただし、これには素直に喜べない続きがある。現場の先生方は、胸の内では、「もっと子ども達を自由にのびのびと育てたい」と思っているのだが、そこに、「あ・ん・ぜ・ん」という言葉が持ち出されると、もはや自らの意見なぞ表に出せなくなってしまうという言葉が続けられたからである。

20世紀という時代に、ファーストという概念が絶対的な力を持っていたことを思い出したい。ファーストの持つ魅力からすれば、スローは屑のようなものだったに違いない。前世紀は、1つの視点に絶対的な信仰が与えられるときに構築されやすい、モノクロームな世界が具現化された世界ではなかっただろうか。

安全という言葉が絶対的な力を持ってしまった今もまた、子どもをめぐる環境に対して、その他の価値観は不当に貶められる形で、他へ追いやられてしまっているように見えないだろうか。そこには、多様な視点が入り込む余地がない、単独の価値観だけに支配された前世紀のような社会の風潮と同じような構図が形成されているようにも見えるのである。

道草の調査を続ける中で、私は、多様性が成立し難い世界に身を置くことの恐ろしさをつくづくと感じている。それは、誰もが好ましくないと思っているにもかかわらず、現実的には、その反対の方向に物事がすすんでいってしまうという風潮が形成されるからであり、一度そのような風潮が形成されると、そこに歯止めをかけることが極めて困難であるということをしみじみと味わっているからである。

道草の研究とは、前世紀の価値観との絡みでいえば、「無駄」を研究することであった。だがそれは、ある価値観に対する相対的なものに過ぎず、決して絶対的なものではない。それは、ファーストという価値観に突き動かされてきた社会に多くの不都合が生じた結果、スローという価値観が重みを持ってきた流れをみればよくわかる。道草研究の意義とは、ある現象のなかに内包される多様な価値観を浮かび上がらせていくことにあると私は考えている。

辞書を紐解くと、道草とは時間を浪費することというようなくだりが目に飛び込んでくる。しかし、「時間の浪費=悪」ということでは決してないだろう。時間の浪費が、その後の成功に結びついたということも、よく耳にするではないか。

私は、1つのものの見方や1つの価値観に社会が収斂していくことを防ぐツールとして、道草研究が持つ可能性に魅力を覚えるのである。 多様な視点の同居を寛容に受け入れる社会の土壌があることこそが、自由という空気の存在を保障していく重要なものと考えるからである。

私が子ども時代を過ごした昭和40年代に、一世を風靡した広告のキャッチコピーをまねてみたい。
「道くさも出来ない世の中なんて・・・・・」
さて、みなさんなら、このあとにどんな言葉を続けるだろうか。

『子どもの道くさ』,水月昭道/著,東信堂,700円。お手元に置いて頂けますと幸甚に存じます。

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