えっせい

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「「逃避」の最近の収穫」

筆者: 松原 洋子   執筆: 2006年 月

先端総合学術研究科教授[br]松原洋子  試験勉強をしていると突如部屋の模様替えをしたくなったり、締め切り間際に限って、手の込んだ料理を作りたくなったりした覚えのある人は、いないだろうか。もちろん私には覚えがある。追いつめられたあげく、強烈なエネルギーが的はずれの方向にほとばしるわけで、省エネの時流に反する。でも、この無駄が、思いがけない楽しみを連れてくるからいけない。最近では、話題のマンガや本を手当たり次第読みふけったりする。この間も、クラシック音楽コメディーマンガ『のだめカンタービレ』を全巻大人買いした。また、普段ミステリーは読まないのだが、去年の『このミステリーがすごい!』大賞受賞作は、「病院もの」ということもあって購入、即一気読みしてしまった。

 その本、海堂尊『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)は、「このミス大賞」審査員全員一致で大賞が決定しただけあって、読者を全く飽きさせない。著者は現役の勤務医とのこと。小説の舞台はたぶん帝大系ではない、国立大学医学部附属病院だ。「病院もの」らしく、シリアスでリアルだが、時に爆笑を呼び、痛快だ。選考評によれば「この小説のすごさは、徹底してリアルなその世界にマンガ的な(誇張された)キャラを放り込み、みじんも違和感を与えない書きっぷり」(大森望)にある。「マンガ的なキャラ」というのは、「厚生労働省大臣官房秘書付技官 白鳥圭輔」。アメリカ帰りのエリート心臓外科医が率いるドリームチームが手がけたバチスタ手術の患者が、相次いで手術中に死亡。その真相究明のため派遣されたのが白鳥で、官僚らしからぬ暑苦しい振る舞いで関係者にはげしい揺さぶりをかけ、犯人を追いつめていく。その揺さぶりの心理的テクニックもおもしろく、確かに強烈なキャラなのだが、この小説の成功はもう一人の主役、「田口講師」の視線で描いたことにあると、私は思う。

 この小説は「俺」、神経内科医・田口講師の語りで進行する。出世競争から外れ、「不定愁訴外来」――別名「愚痴外来」――を担当している中年医師の田口は、大学病院の中では地味キャラだ。実際、脱力系の人物なのだが、その傍流のポジションは、大学病院の権力の渦にまきこまれずサバイブするために彼自身が戦略的に仕掛けて獲得したものでもある。非力ながらも存在感を持つ田口は、恩師でもある院長に見込まれ、特命を受けて術中死の真相究明に取り組む。しかし、調査は袋小路に入り、そこに白鳥が乗り込むという展開となるのだ。

 その謎解きについては、まだ読んでいない人の楽しみにとっておくことにして、ここでは田口独自のポジションに注目したい。つまり、大学病院の権力構造や医療の矛盾を、傍流の医師として他人事のように眺めながらも、同時に一組織人として病院の不祥事処理につきあうこともやぶさかではない、という微妙な距離感である。渦中にあるが、醒めていて、医師として誠実だが同時に無力感も抱えている田口の語りから、大学病院や医療が抱える問題が立ち上がってくる。すなわち、「巧みな手術手技で患者の命を数多く救う外科医より、ネズミの死体を学術雑誌の数ページに変換できる人間の方が、大学病院での評価は高い」(167頁)という業績主義、「カルテは医者のもの」という「旧世代医師の時代錯誤的感覚の死守」(18頁)のために進まない電子カルテ化、麻酔医の苦境、臓器移植をめぐるメディアと倫理学者の「罪」、エリート外科医の献身と自己過信、などなど。さらに、生命の根幹に関わる動物実験と医学の倫理。実はこれが、田口が傍流になった理由であるとともに、術中死の犯人の動機にも繋がるのだ。

 『チーム・バチスタの栄光』はドラマ化されるかもしれない。キャスティングに勝手に迷うが、「不定愁訴外来」をどっしり支えるベテラン看護師・藤原は、市原悦子で決まりだ。

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