エッセイ
3 立場をかえること、なじみの世界から離れてみること、対人援助を学ぶこと
反米思想の変容とも大いに関係することであるが、CIIS をサバティカルの研究先に選んで、大いに正解であった。CIISは大学院中心の教育機関であるが、小さなインスティチュートで、そのためアメリカ連邦政府から交換教授としての滞在許可ヴィザがおりなかったということがあった。そのため、そこに「院生」として登録し、また実際他の学生と全く一緒にそこでの授業に参加することになった。もともと、アメリカで始まった新しいドラマ・セラピーなど、実際に集団のなかで体を動かし、その場で学ばないと全く意味がないものを中心の研究テーマにしたからには、自分もそこでは生徒として院生の一団に入ろうと思ってはいたが、これが期待以上に興味深い体験となった。と言うのも、基本的にドラマ・セラピーの学習は基本的にグループとして展開して行くものであったため、多くの若者――と言っても、平均すると30代だったが、そもそもCIISは20代から実に60代までいろんな院生が入る ―― と同じ感覚で、かなり深い付き合いをすることになったからである。軍隊でコホートと呼ばれ、編隊を組む小グループ cohort のなかに組み込まれることになり、そのため同じグループの16名の仲間と、「授業」クラス以外にも、いろいろ交流することになったというわけである。いつもは先生で、教える側に居つづけていたものが、ここでは全くの生徒になる。この立場の逆転の体験は、それだけで実に面白いものだ。もともと私は、日本でも自分を誰も知らないいろんなグループに出て、新しいことに接することが大好きで、生徒や新参者になることは、別に珍しいことではなかったが、それでも、言葉が全く違う環境で、しかもそれがアメリカという年齢差別が非常に少ない社会で行われると、なんとも新鮮な体験を味わうことになる。実際、最初は体験なり学習事項が新しいことで埋め尽くされるという感じであったが、そうでない時も、これまでとは全く違った視点でコトが見られ、大きなことから小さなことまで、毎日が発見の連続であった。
自らをいつものなじみの世界から引き離してみることは、《学ぶ》ということについて根本的に考え直し、さらに自分のパターンを見直すのに徹底的に大切なことである。自らが援助なり指示を受ける側に立つという体験は、役割によっていかに人は動いているか、動かされているか、これを体験・体感できる。役割というものは、人にその立場に立たせるだけでなく、その内側に身も心も入ってしまうほどの力を発揮させるのだ。だからこそ、「教育」も含む対人援助を学んで行く上において、自らの役割をその土台のところで変えてみることは、自分が寄って立っているさまざまな前提を突き崩してくれる。それに加え、演劇的手法は、想像の上で全く新しい役割を創ったり演じたりすることにも人をうまく乗せるのであるから、いつもの自分の固定した役割からの脱出は、難しいことではない。新しい役割はそこでの場面と雰囲気次第といったところである。
実際、自分のアイデンティティにさえなっているような役割も、実はそれにふさわしい《場》や《場面》がそれを可能にしていることが多く、《場》から外されたら、意外に簡単に崩れ去るものなのだ。自分の言動をこれまでとは全く違った世界においてみると、またさらに自分が依存している深い文化の無意識の前提をも露にさせることができる。《場》が作用する力は、実際にそこに立ち臨むことで、初めてわかる。そして、その特質は、それまで通用していた場面と違う場面に自分をおいてみることで、はっきりするのである。また、そうしなくては決してわからないとも言えるだろう。
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上は アルマンド・ヴォルカスの「ドラマ・セラピーと社会変革」とういうクラスの最後の一コマ。 |
これだけでも、異文化の只中に自らを置いてみることが、心理的な対人援助のセンスやスキルを学ぶうえで、いかに大きなトレーニングの機会を提供してくれるかがわかるというものだ。できれば若いうちに異文化に体ごとぶつかり、カルチャー・ショックを体験すること! 私は属している応用人間科学研究科の院生には、しばしばこう言うことにしている。外国に行かなくとも、異文化体験はいろんな形で可能であり、(障碍者と付き合いや、自分とはまったく違った信仰をもった人たちとの接触などなど) 外国語ができることが、必ずしもそのための条件ではないのだ、とも。
日常のなかで大きな異文化体験ができないとしても、現在の役割から時々は完全に離れてみようとするくらいはできるだろう。それだけでも世界が別の観点から新鮮に見えてくる。固定したおなじみの役割にだけ身をおいていると、その役割だけが自分となってしまい、現実の全体が見えなくなってしまう。少なくともこうしたことに対する警戒心だけは、忘れないようにしたい。
何ごとにつけても、できる限りコトに実際にあたってみること、立ち臨んでみること、現場に行ってみること!これも、心理臨床をはじめとする対人援助の専門家養成の中で絶えず言っていることである。言葉を最大の手段として使うとしても、現実・現場を知らずして、碌な援助ができるわけがない。「臨床」の「臨―のぞむ」という言葉には、今・ここでの《場》に臨む、という意が込められているのだ、と。これを本気で受け取って、しっかりした体験学習をして来る学生からは、実際の現実に触れ、大きな発見の連続という感動的報告をもらえることがほとんどである。
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上のシーンは、サン・フランシスコではしょっちゅうのストリートを閉鎖し、 広場にして行われるフェスティバルのひとつ。 |
今回のアメリカ体験は、自分が絶えず言っていた正にそのことを、改めて自ら実体験したわけだが、すべてが予想以上のものであった。それは例えば、かっては自分も教育・研修を受ける生徒であったとか、あるいは「教育分析」を受けたからなどというのは、全くもって十分ではない、ということを改めて痛感させたということである。資格と結びついた制度化された教育などは、現場に出るための一歩にすぎず、現実のなかでの《学び》のためには、障害になったり、あるいは時に災いになったりさえする。さらに異なった文化のなかに身を置いてみると、そこでのやり方はもちろん、制度そのものも自らのなじんだものとは大いに違うこともあり、その可変性こそがますます見えてくる。
自身の学びや成長に関して言えば、上にあげた「分析」にこだわるとしたらであるが、もちろん新しい体験を通じて続く「終わりなき分析」であり、それは、他者との出会いのなかではじめて展開していく《学び》であり、適応的な同化の重要性はもちろんであるが、それ以上に異化のプロセスを通した自己発見なのである。
こういう作業は全てを最初から見直すことになるので、確かにちょっときついかもしれないが、しかし、心理的な援助を専門にする者にとっては、やる気と条件さえ整えば、それはいくつになっても不可能ではない。そして、現役であり続けるには、時々は自分がしていることをはじめから見直しをすること、少なくとも、その精神は不可欠ではないか、と改めて思えた。少し気取って言えば、絶えることなく続く「学びについての学びの旅」といったものの必要性を確認した気がする。
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